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大槻平泉(おおつき へいせん、1773年(安永2年) - 1850年2月28日(嘉永3年1月17日)[1]))は、江戸時代の儒学者。名は清準、字は子縄、通称は民治。陸奥国磐井郡出身[1]。1809年(文化6年)に仙台藩の藩校であった養賢堂(現宮城県庁所在地)の学頭として起用される。その際に、大規模な学制改革と施設拡充を行い、1817年(文化14年)に講堂を完成させた。また、大槻玄沢らの助言と建議に基づき、1815年(文化12年)に医学校を独立させて、全国に先駆けて蘭科の設置を行った。仙台藩の支藩である一関藩の大槻一族が仙台藩の頭脳となり、同藩に大きな影響を与えた。
1918年(大正7年)、正五位を追贈された[2]。
- ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.45
- ^ 『ダ・ダ・スコ』p25-29
- ^ 宗家の代数:『GENTAKU』一関市博物館(2007年)