吉田長治兵衛

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吉田 長治兵衛(よしだ ちょうじべえ、? – 元文4年8月23日1739年9月25日))は、江戸時代中期の一揆指導者[1]

経歴・人物[編集]

陸奥国磐城郡柴原村生まれ[1][2]。元文3年(1738年)9月、長治兵衛率いる一揆勢約2万人は磐城平藩の過酷な収奪に反対し磐城平城下へ押し寄せ、新税撤回などを要求した訴状21カ条を藩に提出した[2]。この一揆は「磐城平藩元文一揆」「元文三年平藩一揆」「磐城騒動」などと呼ばれる[3]。増税撤回などの要求は認められたが、翌年捕らえられ、「百姓一同願ある節万端頭取我ままなる義有之」[4]を理由に、中神谷村武左衛門藤間村理右衛門ら一揆の指導者ら8人と共に鎌田河原で死罪となった[1][2]。生地の遍照寺境内に墓、平鎌田の五霊神社境内に義民碑がある[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b c デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『吉田長治兵衛』 - コトバンク
  2. ^ a b c d 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞社)『吉田長治兵衛』 - コトバンク
  3. ^ 吉田長次兵衛・首切り地蔵、2018年7月23日閲覧。
  4. ^ 『奥州磐城騒動抜書』