ノート:Do not stand at my grave and weep

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日本語訳に関して[編集]

"a thousand" の訳に関して[編集]

"a thousand" は「幾千」と訳すのが適切、という意見もあります。ですが、桜の名所である奈良の吉野山には「下千本・中千本・上千本・奥千本」と呼ばれる桜の密集地があり、これは言葉どおりなら計4千本ということになりますが、実際には3万本ほどの桜があるそうです。この例にもあるように、日本語の「千」にも「幾千」という意味が含まれるのではないかと思います。原詩の表現を尊重するという意味も含めて、直訳である「千」がやはりしっくり来るように思います--Ki-109 2007年5月5日 (土) 09:13 (UTC)[返信]

"I do not sleep", "I did not die" の訳に関して[編集]

なるべく直訳に近い形で訳すなら、次のような形が適切なのではないかと思います。

I do not sleep = 私は眠らない
I did not die = 私は死ななかった

ちょっと不自然な日本語ですが、そもそも原詩の英文そのものが何かひっかかる表現なのではないでしょうか。日本語として自然な表現にするために「眠ってはいない」「死んではいない」と訳したい気持ちもわかりますし、それも間違いとはいえないでしょうけど、それはちょっとした意訳なのではないかと思います。「眠ってはいない」「死んではいない」に直訳として対応する英文は、次のようなものになると思います。

私は眠ってはいない = I am not sleeping
私は死んではいない = I am not dead

これはやはり "I do not sleep", "I did not die" とはニュアンスが異なると思います。ここでは百科事典という性格上、できるかぎり直訳に近い形が望ましいのではないでしょうか。--Ki-109 2007年8月14日 (火) 07:29 (UTC)[返信]

もうすこし追記させていただきます。「私は眠ってはいません」だと、「今は眠ってはいないけど、いずれ眠るかもしれない」という意味にも解釈できます。「私は眠りません」なら、「ずっと眠りません」という意味にも解釈できます。「死んではいません」も同様で、「今は死んではいないけど、いずれ死ぬかもしれない」とも受け取れます。これは小さくない違いではないでしょうか。

原詩の「I do not sleep」「I did not die」という表現にも、もしかしたらそういうこだわりが内包されているのかもしれません。そして、それを「眠ってはいません」「死んではいません」と「意訳」することは、そのこだわりをないがしろにしてしまう可能性があると思います。もちろん、翻訳とは自由なものであり、翻訳者の主観次第で様々な意訳が許されるべきです。例えば思い切った意訳を含む新井満氏のバージョンも嫌いではありません。

しかしここは百科事典であり、この記事の目的は原詩である「Do not stand at my grave and weep」を紹介することです。そしてここでの日本語訳は、その紹介のための参考資料に過ぎないわけです。したがって、ここでの日本語訳は、日本語として自然な表現にこだわって多少の意訳を加えるより、日本語として多少不自然な表現になってでも、原詩の内容をできるかぎり正確・客観的に紹介したものの方がふさわしいのではないかと思います。わずかな意訳であっても、それが原詩のニュアンスを損なう可能性があるなら避けるべきです。--Ki-109 2007年8月19日 (日) 10:13 (UTC)[返信]

今問題にしているのは、「私は死ななかった」と「私は死んではいない」のどちらが正しいか、ではありません。正しい・正しくない、という視点で見れば、両方正しいわけです。ここで問題にしているのは、そのどちらが原詩の内容をより正確に伝え得るか、です。そして、この項目の目的は原詩を紹介することですので、訳詩の日本語表現が自然かどうかは二の次で良いと思います。「私は死んではいない」のほうが適切であるなら、その根拠を示して欲しいと思います。--Ki-109 2007年8月21日 (火) 13:46 (UTC)[返信]

日本語と英語では言語学的にも非常に大きな隔たり、違いがある。今回、「私は死ななかった」の方が原詩に近いと思っているとすればそれは誤りである。日本語的にみて自然であることが、しいては原詩の内容を正確に伝えることに繋がるのである。 "I did not die."を「私は死ななかった」とすることを強制する根拠はどこにもない。それは学校で習った英文法に忠実に従っているだけであり、それを原詩に忠実だと勘違いしているだけである。極端な話、"I eat rice."を貴殿のいう「忠実に」訳したならば「私は食べる、米を」である。英語はSVO構造が基本だからである。しかし我々は日本語の文法(SOV構造)を鑑み、「私は米を食べる」と無意識的に修正するのである。何度も言っているように、貴殿のいう「忠実」とは学校で習う英文法に「忠実」なだけであって、それを原詩に忠実だと勘違いしているのである。日本語的にみて自然な訳が、しいては原詩に忠実であることに繋がるのである。--221.119.94.159 2007年8月21日 (火) 16:33 (UTC)[返信]

おっしゃることはもっともですが、私は単に教科書的な文法に従うべき、と主張しているわけではありません。その点は誤解なきようにお願い致します。「私は死ななかった」も「私は死んではいない」も「私は(死ぬかもしれなかったが)死ななかった」、「私は(死ぬかもしれなかったが)死んではいない」というように、「(死ぬかもしれなかったが)」という点が前提となる表現であると言えると思います。ですが、前者の方が「(死ぬかもしれなかったが)」という点をより強く連想させることを狙った表現であると言えるのではないかと思います。そして、原詩の「I did not die」という表現にも、そのような狙いが隠されている可能性は無いのでしょうか。加えて、「私は死ななかった」という表現は日本語ではよく使われる表現です。この表現を用いることにより日本語としての自然さが大きく損なわれることは無いと思いますが、いかがでしょうか。--Ki-109 2007年8月21日 (火) 17:09 (UTC)[返信]

また別の視点です。「私は死んではいない」の場合、「なぜ死んでいないのか」という点が曖昧です。「死ななかったから死んでいない」とも「一度は確かに死んだが、その後生まれ変わって復活したから今は死んではいない」とも解釈できます。そして、この2つの解釈は思想上同一のものとは言えません。そして、原詩の「I did not die」は、明確に前者の思想を表したものであり、後者の思想であるという解釈はできないわけです。--Ki-109 2007年8月21日 (火) 20:39 (UTC)[返信]

では「わたしはそこにはいません、わたしは死ななかったのです」のようにしてはどうですか。「わたしはそこにはいません、わたしは死ななかった」という文よりかなり自然な日本語のような気がしますが。--221.119.94.159 2007年8月22日 (水) 05:40 (UTC)[返信]

それによって解釈の幅が変わることもありませんし、単に日本語の問題になりますから異論ありません。ただ、「わたしは死ななかった」と書いていたのは日本語訳が丁寧語に改変される前の話です。丁寧語に改変された後は、それに合わせて「わたしは死にませんでした」と書いていました。もちろん「わたしは死ななかったのです」でも良いと思います。--Ki-109 2007年8月22日 (水) 10:05 (UTC)[返信]

本文の日本語訳を「わたしは死ななかったのです」に修正しました。1週間ほど様子を見て特に反論が無いようであれば、本文の「議論」テンプレートを外したいと思います。--Ki-109 2007年8月23日 (木) 19:42 (UTC)[返信]

本文の「議論」テンプレートを外しました。--Ki-109 2007年9月1日 (土) 13:04 (UTC)[返信]