ノート:非訟事件

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内容に対する批判について[編集]

私が参加しているメーリングリストで、この記事の内容が批判されているのを知りました。指摘されている問題については、執筆時に一応どうするか検討していましたが、本項目の場合、具体的な事例を掲げることは以下のような問題があると判断しました。

  • 非訟事件に該当する類型は雑多なものがあり、それぞれ個々の類型ごとにかなりの特色があるため、少ない例で代表させることは相当ではなく、ある程度の量の例を掲げる必要がある。
  • しかし、一つ一つの類型ごとに具体的な事例を書く態度を採ると、それだけで膨大な量になってしまい、他に書くべきこととのバランスを失する結果となる。

以上の問題があるため、いわば妥協として、分かりにくいとは認識しつつも、あえて事例を書くことをせず類型の例を複数掲げるにとどめ、その具体的な内容については別項目に委ねた方がベターであると判断した次第です。

このような検討過程を経たことを示さなかったことは私の落ち度ですし、解りにくいという批判は甘受します。しかし、単なる悪口ならともかく、内容に対して具体的な批判があるのに、それをノートで示すことをせず、ウィキペディアとは本来無関係の掲示板で指摘するにとどめることは、以下の問題があると考えます。

  • 批判の内容に対し執筆者が反論する機会が与えられない場合がある。
  • 批判を切っ掛けに項目の問題点を修正する機会が少なくなる。

当然ここで疑問を示す義務があるわけではありませんし、示すかどうかは自由です。しかし、ここで指摘する方法を知らないわけではなさそうですし、わざわざ無関係の掲示板で指摘するにとどめる意図が理解できません。Swkz 2004年11月22日 (月) 11:04 (UTC)[返信]

削除依頼を見てやってきました。法律には詳しくないので形式的な指摘しか出来ませんが具体例をあげることが困難であるならば、外部サイト等で具体例を調べる方法を本文中に記載してみてはどうでしょう。それだけで記事のわかりやすさがずいぶん違ってくると思います。
僕は某所にも結構入り浸っているので、「批判の内容に対し執筆者が反論する機会が与えられない場合がある。」、「批判を切っ掛けに項目の問題点を修正する機会が少なくなる。」という問題は意識していませんでした。僕自身が"褒め屋"として活動しているわけではないので想像ですが、彼らはウィキペディアの優れた新着記事を紹介し、記事の改善点を指摘することを目的としているはずです。ですから、あそこで紹介されたことが執筆者に伝わらないのは彼らにとっても残念なことなのだろうと思いますし、ウィキペディアとは本来無関係の掲示板であることは事実ですから何か工夫が必要かもしれませんね。向こうで提案してきます。yhr 2004年11月23日 (火) 05:29 (UTC)[返信]
考え方はそれぞれだと思いますが、匿名で批判するのならいわゆる「便所の落書き」と原理的には同じですし、名前を出さないで(ここではウィキペディア上でのハンドルとの結びつきを公開しないで)批判するなら、陰で安全なところから人を指弾する行為であり、不快に思う人がいても当然でしょう。私は匿名批評自体の効能を否定するわけではありませんが、自分が属しているコミュニティの批評を匿名ですることには実存的な疑問を感じます。それは自己の帰責性を放棄する、説明責任を隠蔽しようという行為であって、対等な個として相手に向かい合う態度ではないでしょう。Swkz さんがこのようにお感じかはぞんじませんが、私はこの点から Swkz さんのご不快はごもっともだと思いました。
ではハンドルを公開していればよいかというと、相手がみるかどうかわからない批評を書くなら、やはり陰口の類に堕するものだと考えます。以前 Jimbo さんらと別のことで話をしたことがありましたが、ウィキペディアは匿名の投稿者を受け入れるポリシーを堅持するけれども、匿名の人間はコミュニティに参加しているとはいえない、ましてや slashdot などで匿名で特定投稿者を批判するのは愛と尊敬の対極にある態度だろう、ということをいっていました。私も「褒めるのは陰で、批評は表で」がコミュニティの健全さを保つことに資するだろうと考えます。また外部での批評では項目の改善にどのように資するか不明のため、コミュニティへの行為として意味があるとはあまり思えません。
もっとも、日本語版には相互査読制度がなく、Wikipedia名前空間で新しく何かを立ち上げるというのはある種の勇気を必要とする行為なのだとすると―大胆に編集せよ、というモットーはさておき―匿名批評子が主張するであろう「なぜ掲示板ではじめたのか」は理解できなくもないです。私は上に書いた理由で共感はできませんが。
相互査読制度がないことがあるいはこうした外部での匿名批評を生んでいるとすれば、査読を導入する時期にきているのかもしれません。フランス語版など日本語版と登録ユーザが少ないところでも、公開相互査読は機能しています。--[[利用者:Aphaia|Aphaea*]] 2004年11月23日 (火) 05:46 (UTC)[返信]
匿名性うんぬんに関する感情的反論はあるのですがそれはとりあえずおいておくことにしましょう。
僕がSwkzさんの指摘の中で論理的に言って一番問題なのは
  • 批判の内容に対し執筆者が反論する機会が与えられない場合がある。
  • 批判を切っ掛けに項目の問題点を修正する機会が少なくなる。
の2点であると思いました。なので、某所で批判が掲載されたならば、こちらのノートにもその旨お知らせないしは転記すればよいと思いました。
また、今回の件は投稿者に対する批判ではなく記事の、それもメタレベルでの批判です。このような場合は批判が建設的なものであるかどうかだけが問題であり、批判者が誰であるかは問題ではないと思います。批判が建設的でないと感じるならば批判者が誰であるかに関わらず、無視すればよいだけです。
またAphaeaさんの主張はコミュニティ外からの批判を受け入れないとも取れるのですが、これは僕の誤読でしょうか?ウィキペディアはそんな閉鎖的なコミュニティではないと信じます。yhr 2004年11月23日 (火) 06:38 (UTC)[返信]
項目から外れますので簡単に。外部からの批判は当然ありえるでしょう。先日のブリタニカ元編集者のような批判ですね。あれに対して「間違いがあるなら自分で編集すればよい」という反論もありましたが、外部からの批判としては当然誤記や記入漏れに対する批判はあっていいとおもいますし、また当然ありうるものだと思います。私が問題にしているのは、ウィキペディアのコミュニティの中にいる人が外部で匿名批評することで、もしそうであればはなはだ遺憾だと考えています。--[[利用者:Aphaia|Aphaea*]] 2004年11月23日 (火) 06:44 (UTC)[返信]
wikipedia内部の人って誰なんでしょうね。ウィキペディアのハンドルで書いたからといってせいぜいその人が過去に書いた記事が参照できるくらいでたいした意味はないのと違いますか?立派な批判だからその人の過去に書いた記事を参照したいとかそう言う話であればまた別ですけど、立派な批判者が立派な執筆者とは限らないわけですし。まあ匿名だとか本人から見えないところで人格攻撃を行うようなことがあれば問題ですけどそれとこれとは無関係でしょう。yhr 2004年11月23日 (火) 06:55 (UTC)[返信]


こんにちわ。Aufと申します。Swkzさんが指摘した掲示板の書き込みをしたものです。2ちゃんねるのWikipedia関連スレッドでは、水月と名乗っております。Wikipedia内のAufが2ちゃんねるの水月と同一人であることを証明する手立てはありませんが、とりあえず信用してください。

なお、ここに記すコメントとほぼ同じものを2ちゃんねるのスレッド([インターネット百科事典ウィキペディア(WIKIPEDIA)2 http://pc5.2ch.net/test/read.cgi/internet/1101182561/l50]) にも記したということも報告しておきます。

さて、2ちゃんねるのWikipedia関連スレッドには私以外にもいわゆる褒め屋さん達がいます。褒め屋とは、Wikipediaで新規執筆された記事をピックアップしてコメントを加えて、2ちゃんねるのスレッドに書き込む人のことを指します。これから記す意見は私自身の見解であり、他の褒め屋さん達の意見とは必ずしも一致しないことをご承知ください。

先に結論を述べさせてもらいますと、私が2ちゃんねるのWikipedia関連スレッドに書き込むわけは、より多くのウィキペディアンに記事を見て、さらに記事を改善してもらいたいというところにあります。

私の新規記事紹介におけるコメントは必ずしも、その新規記事を編集してきた人に対してのものではありません。コメントは、2ちゃんねるのWikipedia関連スレッドを見てくださっているウィキペディアンに対して行われるものです。

確かに、各記事のノートに私からのコメントを書いていけば、その記事を執筆した人にとっては、探しやすいでしょう。現在のWikipedia日本語版では、一日に更新されるページの量が多く、たとえ私のほうで各新規記事のノートにコメントを記していっても、多くの人の注目を得ることは出来ないでしょう。また、こういった情報を知りたいウィキペディアンもこういったコメントを探すことは大変でしょう。といったわけで、2ちゃんねるのWikipedia関連スレッドにまとめて書いているわけです。 つまり私個人としては、2ちゃんねるのWikipedia関連スレッドに記した方が、「批判をきっかけに項目の問題点を修正する機会」が大きくなると考えています。批判を受けても、Wikiですから、別に初版の執筆者本人が直す必要はないでしょう。むしろ私は、初版作成者と違う方にレヴューしてもらいたいと考えています。端的に言えば、三人寄れば文殊の知恵ということです。

なお、私のコメントに反論などありましたら、2ちゃんねるのWikipedia関連スレッド([インターネット百科事典ウィキペディア(WIKIPEDIA)2 http://pc5.2ch.net/test/read.cgi/internet/1101182561/l50])に書き込むのも良いでしょう。この書き込みの方のように私のコメントに対するコメントをしている初版作成者も現にいます。

私のコメントから、みんなでコメントを出し合って、さらに良いものにしていけるようにするのが私の理想です。

私は逃げも隠れもしませんので、批判はいつでもどうぞ。2ちゃんねるの当該スレッドでもかまいませんし、このページでも、私の会話ページでもかまいせん。Auf 2004年11月23日 (火) 08:49 (UTC)[返信]

ひとつだけ。私の環境では2ch.netへの書き込みはできません。「誰でもかける」「2ちゃんねるで批判すればよい」というのは当たらないだろうという指摘をしておきたいと思います。ウィキペディアのことはウィキペディアで、とでもいいましょうか。--[[利用者:Aphaia|Aphaea*]] 2004年11月23日 (火) 08:54 (UTC)[返信]
そう言うことであれば、やはりウィキペディア内で批評活動の場を公式に設けるのは必要かもしれません。2chを見ているウィキペディアンはウィキペディアンの一部でしかないということも有りますし。でも僕の個人的な考えとしては、「匿名での批評」が悪いことだとは思いませんし、2chでの批評活動もあってしかるべきものだと思います。2chはウィキペディアに厳しい視線を絶えず向けつづけている外部の目の一つくらいに思っておけばよいのではないでしょうか?構成する人間がだいぶかぶっていたとしても別のコミュニティであると考えれば問題ないはずです。yhr 2004年11月23日 (火) 09:14 (UTC)[返信]
私は外部での批評一般をとがめているわけではありません。そのことは既に書いています。私がいっているのは外部での批評はあくまでも外部からの批評であって、それを「改善のため」等々内に向けた活動のようにいうのは問題のすり替えであって、もし本当にそう思っているのならば記事のノートなり他の言語版でそうしているようにWikipedia名前空間の中なりでするのが本来のあり方であろうということです。また名前を出して批評することが嫌だというのならば、それはやはり闇討ちのように思われてもいたしかたありますまい。--[[利用者:Aphaia|Aphaea*]] 2004年11月23日 (火) 09:23 (UTC)[返信]
闇討ちのように思うのは勝手だけれども、建設的意見は取り入れそうでなければ無視すればすむ話だと思いますけど。yhr 2004年11月23日 (火) 09:34 (UTC)[返信]

相互査読制度なんて本当に必要なのでしょうか?私は必要だとは思いません。Goki 2004年11月23日 (火) 09:55 (UTC)[返信]

Gleamです。本筋ではないかもしれませんが、議論の足しになりそうなことをいくつか申し上げたいと思います。

  • まず、この議論が「批評」ではなく「批判」という否定的なニュアンスで始まったことは、善意で批評活動を行っている彼らに対して礼を失することではなかったかと、少し立ち直ってみたいと思います。
  • ウィキペディアは善意の協力の下に成り立っていますが、ボランティアという名のドライな関係であるべき一方、コミュニティサイトとして強く認知されている(その結果特定のユーザーが攻撃されたり、IPユーザーが減らない原因となっているかもしれない)現在の日本語版の状況は、是正されるべきであると私は考えています。そのバランスの悪さを感じたユーザーが、外部掲示板のクッションを経て、ある程度パーソナリティーを公にしないで活動したいと考えるのは、現状では当然のなりゆきに思われます。私は管理者ですので強くパーソナリティーを露見せざるを得ない立場にありますが、現状の言論空間のねじれは、いかにIPユーザーに有能なユーザーが甘んじているかを感じさせるものではないでしょうか。
  • Aphaiaさんが各国語版の状況に精通されていることは良く存じ上げておりますし、尊敬しておりますが、それは日本語版の抱える問題と照らし合わせると、理想論となっている部分もあることを認識した上で過渡期を乗り切らないと、今の段階で脱落してしまう投稿者が増えそうだな、と感じています。--Gleam 2004年11月24日 (水) 02:33 (UTC)[返信]

本筋からは外れることなんですが、yhrさんは「某所」などという隠語めいた表現を使われるべきでないと思います。あるいは、そういう部分からも2chなどが嫌われると言えるわけですし。 NiKe 2004年11月24日 (水) 03:02 (UTC)[返信]

本筋から外れることにだけ返答するのも間抜けですが、確かに「某所」なる言い方はまずかったですね。気をつけます。GleamさんとY tumbeさんのコメントに付いては特に異論もないですし上記の自分のコメントの中で言いたいことも言ったと思いますので特にコメントしません。あとでなにか思いついたら時間のあるときに書き込むかもしれません。
それはそうと、ここは非訴事件のノートですから「ウィキペディアにおける批評のあり方」のような話題を話すにはふさわしくないと思うので、ここでの議論を保存することを含めて何処かに移動するべきだと思うのですが、何処へ移動するのが良いのでしょうか?yhr 2004年11月24日 (水) 07:02 (UTC)[返信]


Aphaeaさんのおっしゃるとおり、外部での批評はあくまで外部での批評であり、内に向けた活動では必ずしもありません。今回の場合、その「外野の話」を最初にウィキペディア内に持ち込んだのはSwkzさんであり、またそれを理由に実際にウィキペディア内の文書の白紙化や削除依頼という、建設性とは対極にあるかたちで抗議されたわけですよね? Swkzさんは確かに専門的知識を持ち良記事を書く能力のある方だと評価しておりますが、今回の行動に限っては記事の私物化に準ずるものとして強く非難いたします。ウィキペディアにとって得難い人材ですが、それを理由に大目に見たり、あるいは言いたいことを言わないというのは誤った姿勢だと思いますので、まずそれを非難すべき点として非難した上で、辛口の批評に対してはそれを見返すためにさらに完璧な記事を目指すという、もっと建設的で、しかも達成された暁には御自身の評価を飛躍的に高める選択肢もあっただけに、そうではない方法を採られたことを非常に残念に思っていることをお伝えします。(分野は違えども、私も専門的な正確性と一般への判りやすさの両立に常に苦慮しつづけている身ですので)

Yhrさんも言っておられるように、現在のウィキペディアでは記事の批評がうまく行われていないという点は、私も以前から問題だと思っていました。査読制度の導入も図られているようですが、正直言ってそれが日本でも十分に機能するかどうかについては(特に記事が不足している現時点での導入には)Gokiさん同様、疑問に感じています。Aphaeaさんも言っておられるように、記事への批評(あるいはその批評への批評)を自分自身への批判と受け止めてしまう人が多い、というのがそもそもの背景でしょうが、それゆえに批評に対してためらいを感じる人が多いというのが日本のウィキペディアンコミュニティの特徴だと思います。「正々堂々同じ土俵で」「匿名の陰に隠れず」発言すべし、というのは確かに正論ですが、今の日本ではそれを望むのは現実的ではありません。例えばスラッシュドットジャパンでの匿名発言の比率が本家に比べて圧倒的に高いことからもそれは伺えるでしょう。残念ながら、少なくともネット上で忌憚ない意見を望むのであれば、ある程度の(少なくともハンドルの使用より高レベルの)匿名性が必要だというのが、無視しては通れない、今の日本での現状で、欧米のように匿名性をもって発言の有意性の指標にすることは出来ないのだと。

かと言って、では意見の活発化のためにウィキペディアに公式に匿名性の高い批評制度を導入すべきか、ということになると、それにも反対します。匿名性が高くなれば荒らしなども増えますからデメリットが大きすぎますし、またサーバへの負担などの観点からも現状で批評のためのシステムを盛り込むのは難しいのではないかと思いますので。その点でいえば、外部掲示板で記事批評が行われているという現状は、現実解としてなかなか上手く機能していると思います。SwkzさんやAphaeaさんは2chでの該当スレッド(いわゆる「査読スレ」「マターリスレ」)にはあまり目を通しておられなかったようですので「気持ち悪く」感じたのかもしれませんが、かなり好意的な立場から記事を論じているものが多く、また批評についてもかなり的を射た部分が多いです(だからこそ、私も指摘されるとカチンとくる部分が多いのは確かなんですがね ^^;) このレベルの批評がウィキペディア上でも行われるのであれば、それがいちばん望ましいことだというのは認めます。しかし上述の理由で、残念ながら日本の、今の、ウィキペディア上では、このレベルの批評は期待できません。ならばこそ「今動いてるものは止めるな」の原則にしたがい、2chスレをしたたかに利用するくらいの度量が必要なのだと。そうした上で、ウィキペディアはウィキペディアなりに参加しやすい批評システムの導入を徐々に進めていくのが最も現実的な方法だと思います。ウィキペディアが孤立することなく他のネットコミュニティと協調して、互いにwin-winの関係を保つことは大事ですよね。ウィキペディアン同士がそういう共存関係を目指すように。 --Y tambe 2004年11月24日 (水) 03:04 (UTC)[返信]

この事件以来、Swkz氏がWikipediaにいらしておらず、そういった中ここにコメントをするのは心苦しく思います。結果として、Swkz氏の活発な活動が見られなくなってしまったことは私といたしましても、大変遺憾であります。このノートで行われてきた議論は、最初の話題からWikipedia内部の査読制度あるいは投稿者本人依頼の削除の問題などさまざまな話題に発展しています。私の方からそういったことに口をさしはさむのはまことに差出がましく思われますが、今回の遺憾なことから何かあたらしいことが生まれることを期待します。Auf 2004年11月27日 (土) 12:12 (UTC)[返信]

sketchです。Wikipedia:削除依頼 2004年11月や項目本文、このノートなどを読んで、悩みましたが存続と結論しました。

以下は個人的な感想です。

ウィキペディアが大きくなり、たとえばYahoo! Japanのニュースで個々の項目がリンクされるなど、注目度が上がって来るにつれ、参照だけでなく言及を受ける機会も増えてくるものと予想されます。これまでのこのノートでの議論にもある通り、言及自体は全くの自由ですが、言及された私たちがそれをどう受け止め、項目に反映させていくのかという問題は、ウィキペディアン全体で考えていかなくてはいけないことなのかな、と思います。たとえその項目を執筆していたのがお一人であっても、項目に対して意見や注文があったとしたら、それは加筆・修正する機会があるのに行なわなかった私たちみんなが受け止めて、記事の改善に向けてノートなどで議論していく、というのが建設的な考え方なのかも知れません。一方、執筆した立場からすれば、自らの書いた記事に対して「完全でない」という批判を受けることは、場合によっては大変なショックであるだろうということも想像できます。この場合、今回のようにいったん削除してもらって再挑戦する、と言うような考え方ももちろんあると思われますが、ウィキペディアが共同作業によって作られていくプロジェクトであることを考えると、むしろ一人で気負ったりせず、他の方の協力を仰ぎつつ記事を徐々に成長させていくというアプローチもあるかと思います。その場合、何より必要なのは協力者なのであって、やはり参加している一人一人が項目の成長に向けて協力していかないといけないのだと思います。今後、この項目がより良い項目に成長していくために、皆さんには引き続き項目の改善に向けた議論をして頂ければ、と思います。もちろん私もできる限りで参加したいと思います。sketch 2004年12月9日 (木) 16:53 (UTC)[返信]