ノート:辻イト子

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講演内容一部

知的障害者の長女を育てるに際して、「いつも明るく」をモットーに普通のミカン農家の主婦としてやってきた私がヒョンなことで“畑違いの芸能界”で、「いくつになっても輝きを」という第二の人生を毎日楽しく過ごさせてもらっております。

長女が3歳の時、ケイレンをおこして救急車で病院に運ばれ精密検査をしてもらいました。 すると頭内に小さな傷があることが判明、先生曰く「この傷が原因で癲癇性のケイレンをおこすのですが、手術で除去することは不可能です」「娘さんは一生この傷を抱えたまま成長しなくてはなりませんが、大きくなるにつれて他のお子さんと比べて段々と開きが出てくるでしょう」所謂、知恵遅れになるとの判断でした。 その言葉を聞いた時のショックは大きく、絶望的になったが小・中学校での全校でも2~3人だけの「特別学級」での授業も登校拒否もなく通ってくれた。 そして、養護学校高等部での3年間の学校生活で知り合った同じ境遇の仲間との友情を母子ともども共有することができた喜び。 卒業後は地元の「クリーニング工場」へ15年間、今も毎日一人でのバス通勤をしてくれているが 今の私があるのはこの子のおかげだと思っている。

又、その間に農業一筋の実父が77歳の時に脳卒中で右半身マヒとなり、病院療養でリハビリをするも回復の見込み無く、入院生活2ヶ月後に自宅療養に切り替えました。 ところが本人の“頑張り”で介護中に奇跡の回復を見て、再び「みかん栽培の農作業」が出来るまでになりました。平成4年86歳で亡くなるまでの9年間の自宅介護は、日常の行動においても、50%の手助けだけで行ってくれました。この父親の頑張っている姿は「諦めなければ、なんでも可能になる」という無言の教えとなりました。

そして、親の介護と子供の養育から解放された時にヒョンな切っ掛けで芸能界へと飛び込んだのです。 2年間の「タレント養成学校」在籍中に30数本のCMに出演して「浪花のCM女王」とマスコミで話題にされました。 養成学校を卒業後、ダンナと二人で創めた芸能プロダクションに「私も辻さんのように輝きたい」「バブル経済崩壊を契機に世の中が変貌、素人のテレビCM出演が多くなり自分達にもチャンスがある」とオバチャン達が集まってきました。 そして、いつの間にか90数名(最高年齢は86歳)の大所帯になりました。

子育て真っ最中の人、子育てを終えた人、長年親を介護して看取った人、仕事・お店をしながら時間をやりくりしてる人。それぞれの人生を背負っている幅広い層の主婦達が、「もう一度、輝きたいと!」。自分の可能性を見つけるため、人生を楽しむ為に「おもろいこと」にマイシンしています。 「更年期障害」や「うつ病」で悩んでいた人も病気もフッ飛んで「漫才・コント・ダンス」など等、皆さん楽しくやっております。 そうすると、「夫婦円満」で自然と家庭が明るくなるのです。 自分の足を一歩前に踏み出せば、新しい自分を見つけることが出来るのです。 私自身も「まだまだ輝いていたい」と、今は夫を引き連れて50歳を過ぎて夫婦漫才にも挑戦中です。

以上のようなことを90分間「普通のおばちゃん感覚」で「おしゃべり」し「涙あり、笑いあり」で好評を戴いております。 (講演80分+夫婦漫才10分の形式でも行っております)