ノート:賈詡

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『三国志』における賈詡の記述について[編集]

220.96.201.141さんが消された記述の大方は、いずれも陳寿の『三国志』(及び裴松之注)に見えるものであり、決して過大評価などというものではありません(そもそも私だけが書いたわけでもありません)。220.96.201.141さんには正史をもう一度読み直されることをおすすめしますが、念のために一応例をいくつか挙げておきます。

  • 「賈詡の家族は段煨のもとに残ったが、賈詡の思惑通り、段煨は張繍との関係を気にしてこれを厚遇した」
賈詡伝には「また私が外部において強力な支援者と結びつくことを期待し、必ず私の妻子を大切にしてくれるでしょう」という賈詡の発言があり、さらに「かくして賈詡が赴いたところ……段煨は(賈詡の)予想通り彼の家族の面倒をよく見た」とあります。
  • 「自ら劉表と会見し、同盟を締結した」
裴松之注の『傅子』には「賈詡は南方に趣き劉表と会見した」とあります。
  • 「曹操の長子曹昂と曹操直下の猛将典韋を戦死させた」
この戦いで彼らが戦死しているのは事実であり、この記述が問題があるとは思えません。
  • 「張繍が賈詡の意見に従い曹操に降伏すると、曹操は彼らを厚遇した」
張繍伝には「張繍が到着すると、太祖はその手をとってよろこび、歓迎の宴会をもよおし、張繍の娘を子の曹均の嫁にし、張繍に揚武将軍の位を授けた」「張繍の領邑は特別多かった」とあり、曹操が厚遇したという記述には別に問題があるとは思えません。
  • 「曹操の側近の多くは許攸の発言を疑ったが」
武帝紀にこの記述があります。

以上のように、これらの記述は正史の記述に反しているわけではなく、そういう意味では消す理由はありません。また220.96.201.141さんは「曹操・曹丕は赤壁で勝利を収めることができなかった」と書きましたが、曹丕の場合は赤壁ではなく、ずっと後の話であるので、かえって記述の正確さが失われております。これらのことを鑑みて、むしろ220.96.201.141さんの記述こそ取り消すべきではないでしょうか。--Joffed 2010年9月27日 (月) 16:12 (UTC)[返信]

改名提案[編集]

WP:NCの改定により、本来の表記である「賈詡」を記事名にすることができるようになりましたので、改名を提案します。--こんせ会話2020年7月5日 (日) 00:32 (UTC)[返信]

報告 改名しました。--こんせ会話2020年7月12日 (日) 05:16 (UTC)[返信]