ノート:負芻

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  • 彼の出生の場合はいろいろな説がある。『史記』の「楚世家」では、幽王悍と哀王猶の妾腹の長兄とされる。

「楚世家」から分かるのは、1「幽王の弟が哀王」、2「哀王の庶兄が負芻」の2点ですが、「幽王と負芻のどちらが年長か」については特に触れられていないのではないでしょうか。

  • その一方、同じ『史記』「春申君伝」では、父の考烈王はなかなか嗣子が儲けられず、これを案じた春申君(黄歇)が自分の食客である李園の妹を選んだ。既に春申君の子を身籠った彼女は、そのまま考烈王の妃となり、間もなく公子悍(幽王)を産んだと記されている。だが、この話はどうも呂不韋が始皇帝の実父説と同様にあまりにも信憑性が欠ける話であり、多くの史家が幽王の実父が春申君説を否定しているという。となると考烈王は若い頃に既に負芻という公子を儲けているのである。

『史記索隠』では「楚君に子が居なかったと言っているが幽王以外にも子が出来ているからこれは誤り」と言っています。しかし上にあるように、幽王と負芻の兄弟順は不明であり、幽王が第1子であれば世家と春申君列伝は矛盾しません。つまりこの部分は根拠が無いのです。

  • ただ負芻の生母は下賎出身ということは考慮できると思われる。

下賤であったかどうかは何とも言えません。正妻の子でなかったのは確かでしょうけれど。

  • これが『史記』での矛盾の課題が問われる所以であると思われる。

意味不明。

引用部分は誤解から推測した、全く根拠の無い文であるため削除します。--てぃーえす 2008年2月18日 (月) 16:15 (UTC)[返信]