ノート:西突厥

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222.230.134.75氏に質問です[編集]

  1. 室點密可汗(可汗はなくてもいいですが)を葉護可汗に書きかえるようですが、葉護可汗は乙息記可汗の子を指しているのでしょうか?それとも伊利可汗の弟を指しているのでしょうか?
  2. 「ディザブロスは何かの錯誤とする見解が一般的のようです」とのことですが、何をもって「一般的」なのかをもう少し詳しく教えてください。例えばそういう書籍・論文をいくつか。
  3. これは私ももう少し調べなければならないことですが、「同娥設」や「欲谷設」は「名前+官職」ではなく、「○○設」で官職名だと思うのですが。例えば「農林水産大臣」のように。

--トムル 2011年6月23日 (木) 01:22 (UTC)[返信]

  1. 伊利可汗の弟の方ですが、注釈もなく史書を見ても葉護可汗とは何所にもないので根拠不明です。他のページでは室點密とだけあるので著者も自信無いのかも。
  2. 「突厥与回コツ史」に東ローマの歴史書(著者名忘れた・・)に記される可汗名については非常に錯誤が多いと力強く断言しているので、定説なのかなと。シルダリヤ+ヤブグ説に関しては、そもそも当時の呼び名がビザンツでも突厥でも全く違うので、無いでしょう。
  3. 欲谷の方は名と明記されていたので名前と思います。同娥設は・・後で確認してみます--202.215.106.55 2011年6月23日 (木) 09:12 (UTC)[返信]

202.215.106.55ですが完全に勘違いでした、欲谷設・同娥設とも一組で書かれてます。--219.165.77.71 2011年6月23日 (木) 09:59 (UTC)[返信]

「不明」もしくは「自身が無い」とした部分は書きかえておきます。なるべくなら中国の書籍のみを参考にするのではなく、日本の書籍も参考にしてください。もしかすると、あなたの読んだものは一説にすぎないものかもしれません。私自身『突厥与回紇史』や『回紇史』を読んだわけでないので(いずれ読んでみます)、なんとも言えませんが、あなたの編集内容からして信用できる書籍とは思えません。歴史学には定説はないものだとして、諸説を列挙するのがベストな編集だと思います。また、何度も言うように、書籍名は『』で囲んでください。あと、アカウントをとることもお勧めします。IPユーザーのままでは誰が誰だかわからなくなり、同じ人に同じ注意をすることになります。--トムル 2011年6月23日 (木) 13:19 (UTC)[返信]
記事中の書籍名もテンプレは『』なんですね、方針読めばいいんでしょうけど、うーん・・めんどい。。一般的には諸説列挙するのが正しい態度と私も思います。ただ、同時に明らかな誤謬であるディザブロス・シルジブロスの説は載せない方がいいとも思います。日本の書籍はたまたま選んだ本が悪かったのかもしれないけど(書名も忘れた宋に関する駄本、小説チックな杉山さん、その他多数)ハズレが多く薄くて高いしね、買うに値しない。--219.165.77.71 2011年6月23日 (木) 20:13 (UTC)[返信]
「自身が無い」「著者名忘れた・・」「方針読めばいいんでしょうけど、うーん・・めんどい」など、あいまいな気持ちを持ったままウィキペディアを編集してもらいたくありません。自分の編集に責任を持ち、このページを他人が閲覧していることをお忘れなく。また、室点密可汗→葉護可汗、肆葉護可汗→乙毗鉢羅肆葉護可汗としたように、あなたの書きかえによって、リンクが別の所になったり、青リンクが赤リンクになったりすることがあります。リンク先はしかるべき所へ行くよう注意を払って書きかえてください([[|]]を使ってください)。--トムル 2011年6月24日 (金) 15:21 (UTC)[返信]
はいはい、努力します。リンク切れは酷いので、その点は特に。泥利可汗について、どの史書見ても鞅素特勤の子と書いてますね・・(鞅素特勤=泥利可汗はそれこそ著者の錯誤?)。莫賀咄葉護と伽那については、旧唐書で存在と伽那・伽那設の使い分けが確認出来たので、意地張って伽那にしておきます。と思いましたが、あまりに些末過ぎるので、判断はおまかせしときます--219.165.77.71 2011年6月24日 (金) 17:10 (UTC)[返信]

莫賀咄葉護についてですが、『突厥与回紇史』に「室点蜜が莫賀咄葉護だった」と書いているのでしょうか(お手数ですが、書いていれば脚注で『突厥与回紇史』と書いてもらいたいです)?おそらくこれは『新唐書』列伝百四十下にある「阿史那弥射,また室點蜜可汗の五世の孫で,代々莫賀咄葉護となる」という部分からの判断だと思いますが、室點蜜可汗が莫賀咄葉護だったかどうかは史書から判断できないと思います(室點蜜の子から「代々」かもしれないし、孫からかもしれないし)。また、伽那設についてですが、「意地張って伽那にしておきます。と思いましたが、あまりに些末過ぎるので、判断はおまかせしときます」と言いながら書き換えましたね。私としては伽那設というのは官職名か称号のように感じますので、「設」をつけた方がよいと思います。「感じます」では独自研究になるので根拠を一つ。「弩失畢部落の酋帥は(沙鉢羅)咥利失可汗の弟である伽那の子の薄布特勤を…」とあるのは『旧唐書』列伝第一百四十四下です。ここでは「伽那」に「設」はついていません。同じ内容を『新唐書』列伝一百四十下では「弩失畢の大酋は伽那設の子の畢賀咄葉護を…」と記しています。二つを比べた時、「やはり伽那は名前か?」と思いますが、伽那の兄である沙鉢羅咥利失可汗の兄(咄陸可汗)も即位前に伽那設を名乗っています(『新唐書』列伝一百四十下)。咄陸可汗泥孰の場合は父の莫賀設が死んでその後を継いだ時、伽那設と称したようです(泥孰は莫賀設も継承したので、莫賀設は官職名もしくは称号であることがわかる)。兄弟で同じ名前では不自然なので、称号が兄弟間で継承されたと考えた方が妥当ではないでしょうか?あくまで私の推論になりそうなので、とりあえずはそのままにしておきます。--トムル 2011年6月27日 (月) 16:55 (UTC)[返信]

新唐書・旧唐書ともに、弥射は玄孫で代々莫賀咄葉護になる或いは代々長を継ぎその部の長は莫賀咄葉護になる、とあるのでイステミも莫賀咄葉護と考えるのが自然ですね。確かに確定までは出来ませんが。まあ、名前と可汗号があるので不要といえば不要かもしれない。  泥孰父の死による継承は、新唐書には泥孰か伽那設が継いだ、とだけ記され、旧唐書にも父は莫賀設、とのみあります。莫賀は雅号としても、泥歩設・俟利佛設・同俄設・郁射設、烏設啜・泥孰啜・泥孰闕イルテベル・泥孰匐なども居ますね。--219.161.35.146 2011年7月4日 (月) 12:41 (UTC)[返信]
ここ数日電波な人を相手して思いましたわ。根拠の弱い記述は、自信を持って或は力点を置いて書いている箇所ならともかく、さらっと流してる部分の場合は学者が書いてても載せちゃいけないと。--219.161.35.146 2011年7月6日 (水) 19:25 (UTC)[返信]
要するに、そういうことがWikipedia:検証可能性の言っていることなのではないでしょうか。--トムル 2011年7月7日 (木) 14:06 (UTC)[返信]