ノート:董卓

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再評価について

董卓は、反董卓軍決起以前において、少なくとも洛陽近辺で以下のような行動をしています。


1、二月陽城県の春祭りを襲い、大勢の群集のうち、男性は全員殺害し、女性は捕虜として連れ帰って部下たちに分け与えた。また、洛陽に帰還すると、「賊を討伐した」と称して、捕獲した財物や女性を自慢して凱旋行進を行った。 (魏書 董卓伝)


2、侍御史の攘龍宗の服装上の過失をとがめて、宮廷の中で自ら殴り殺す。 (魏書 董卓伝)


3、何進の弟、何苗の墓を暴いて、遺体を引きずり出してばらばらする。 また、何進の母親の舞陽君も捕縛して殺害する。


4、当時洛陽には貴族の大邸宅が軒を連ねていたが、つぎつぎに「捜索」と称して兵士たちを屋敷に侵入させ、女を犯し、財物を奪わせている。 (後漢書 董卓伝)


5、ついでに、後漢の皇帝霊帝の陵墓も暴き、副葬品を奪っている。 (後漢書 董卓伝)


6、皇女を強姦している。 (後漢書 董卓伝)


7、規模は不明だが、恐怖政治を敷き、恨みを持つ者全員を殺害する。 (後漢書 董卓伝)


少なくとも、「再評価」は妥当でないと思います。 再評価の前提の一部となっている、洛陽中での素行は今までのwikipediaの記載とは異なり、記録ではかなり悪いです。史料に見る限りでは、こうした董卓の中央での暴政に反発して、各太守が結託して反乱を起こしたと記録されています。前提に事実相違を含む確かでなさそうな説を掲載するのは、中立的な記事とは言えそうにないと思えましたので、取り合えず削除しました。 希望 2006年10月4日 (水) 15:03 (UTC)[返信]

専横に走ったに関して[編集]

"何故専横に走ったか?"の記事ですが、独自考察や憶測の域をこえていないものであると見受けられましたので削除いたしました。出展などを明記せず「~かもしれない」などで文をしめるのは、百科事典としていかがかと思います。 署名を忘れました、以上の文は私が書いたものです。まことに失礼したしました--きつねそば 2006年12月18日 (月) 13:59 (UTC)[返信]