ノート:荘園公領制

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全体の構成について[編集]

全体に荘園公領制を解釈する概念が古いように感じられます。寄進系荘園、中央貴族の地方統治への意欲消失、開発領主の武士への成長といったキーワードは現在の荘園公領制研究では歴史的な仮設としてバックヤードに後退しつつある概念だと思うんですよね。在地有力百姓層による寄進荘園は安定存続の基盤を欠いて10世紀には解体に向かい、荘園公領制の基盤になった一円化した荘園は11世紀の院政下における一国平均役を契機に一気に領域化したもののようですし、中央貴族達は受領の勤務評定による中級貴族層の引き締めや、武士受領と非武士受領の派遣の匙加減で任国に対する飴と鞭を使い分けることなどによってかなり巧妙に地方統治の手綱を握っている実態が明らかになってきています。また、開発領主が相互の武力抗争で武士に成長したのではなく、承平天慶勲功者子孫をベースとする武士が荘園公領間の武力抗争に対応できる者として荘官、郡司、郷司、保司に任命されて領主の地位を獲得していったというのが最近の解釈であろうかと私は理解しています。--ウミユスリカ 2005年10月1日 (土) 01:08 (UTC)[返信]

およそ、ウミスユリカさんのお考えであっているとは思われるのですが、10世紀と11世紀というのは11世紀と12世紀のお間違いではないのでしょうか?--水野白楓 2008年7月29日 (火) 13:39 (UTC)[返信]
荘園一円化のきっかけになった出発点は、後三条天皇による1069年の延久の荘園整理令だったはずです。12世紀にはもう既に領域化を十分に遂げてしまった後でしょう。--ウミユスリカ 2009年4月1日 (水) 06:07 (UTC)[返信]