ノート:碁聖

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呉清源が「昭和の碁聖」とは多くの書物・雑誌に書かれていることですが、とりあえず手元にあった「昭和囲碁風雲録」に記述がありましたのでこれを挙げておきます。また「棋聖」と「碁聖」が同義である点については、そもそも「棋」という字が「碁」の意味を表す言葉ですので、特に出典を必要とする事柄ではないと考えます。あえていえば「棋聖」は将棋の棋士にも使える言葉だという違いはありますので、ここでは「ほぼ同義」としておきました。Yozakura 2008年8月15日 (金) 14:12 (UTC)[返信]

「碁聖と呼ばれた人物」で「最初に「碁聖」と呼ばれた」(寛蓮)が要出典になっていたので水口藤雄氏の文献を挙げておきました。また、寛蓮と道策、丈和、秀策が並列に見えること、後聖が明治時代に丈和から秀策に変えられたことに触れられていないことが気になったので文章を直してみました。
なお、以下の2点を気にしており、それらにもご意見をお願いします。
1.棋聖の「棋聖と呼ばれた人物について」とかなり重複しています。
2.本因坊道知も「盤上の聖」(囲碁の名人で将棋も強かった)と言われたと伝えられています。--塚本惠一 2010年4月4日 (日) 02:53 (UTC)[返信]

10日ほど経ちましたが意見がないので、月末(GW)まで意見がなければ 以下の方針で編集したいと思います。
棋聖の方の「棋聖と呼ばれた人物について」の「について」を除去。
・「棋聖と呼ばれた人物」から寛蓮を除去。
 棋聖は国際的な説明、碁聖は日本に限定した説明であり、  寛蓮を最初に碁聖と呼ばれた人とする文献はあっても、寛蓮の棋力を推し量る資料は見当たらないため。  碁聖の方の寛蓮の説明は残します。
・「碁聖と呼ばれた人物」に本因坊道知を追加。
--塚本惠一 2010年4月15日 (木) 21:06 (UTC)[返信]

すいません、めんどくさくて放置してる記事がいっぱいあります。いろいろずっぽりやっちゃってください。「盤上の聖」はそう書いておいて、「碁聖」の項目で記述するのでいいと思います。丈和や秀策がいつ頃どういういきさつで碁聖という呼び名が使われるようになったのかとかあると個人的に嬉しいです。--Sugitaro 2010年4月18日 (日) 05:58 (UTC)[返信]
Sugitaroさん、こんばんは。「いろいろずっぽりやっちゃって」に深謝致します。
「丈和や秀策がいつ頃どういういきさつで碁聖」の方は本文に書くのは躊躇いがあります。『日本囲碁体系』の「人とその時代」を書いた林裕氏も断定はしていないからです。
とは言え、ご希望なので、林裕氏の「人とその時代」を要約してみます。
・昭和26年の瀬越八段他2名編の『御城碁譜』で「鬼神の概あるもの…丈和」と書かれた。
・明治15年までは棋聖は先の道策、後の丈和だった。いずれも名人碁所
・(丈和が)秀策にとって替わられた(のは)x氏のなせる業と考えている。
・x氏は(秀策からの)借金を踏み倒しかけ、秀策没後、顕彰碑を立て、募金をつのり、秀策を利用した観もないではない(秀策はx氏を信用できない人物と書いている)
・x氏は秀策の打碁集や布石集『秀策口訣棋譜』(明治37年)を刊行した。
・明治37年には『座隠談叢』が上梓されていて、丈和の碁所就位の秘話が暴露された。
要するに、林裕氏は、聖人にふさわしくない行動をした丈和が、聖人にふさわしい秀策にとって替わられた、だが実力や地位は、ということを書きたかったのでしょう。
なお、囲碁九品にある通り、名人=九段は「入神」の域ですから、タイトル戦の前の名人は全て「棋聖」と称して差し支えないのです。--塚本惠一 2010年4月18日 (日) 13:59 (UTC)[返信]
石谷廣策は「物語り囲碁英傑伝」ではすごくいい人みたいに書かれてますけどねー。そのへんはお任せしますが、そういう初出だけでも分かると嬉しいかと思っただけです。『座隠談叢』だと、丈和には「碁聖道策に亞ぐの大国手」とあり、秀策には「優に秀和の上」なんて書かれて、それに渡辺補追で「断ずることは疑問」となってたりで、どなたか整理してほしいものです。--Sugitaro 2010年4月24日 (土) 11:29 (UTC)[返信]

Sugitaroさん、こんばんは。(インデント戻します。)
まず、お断りしなければならないのは、独自研究は本文には書けないことと、一般向けの解説書の類は孫引きや我田引水の集まりで資料として疑問であることです。
『座隠談叢』でさえ、重要な史料であるにしても、現代の眼では歴史書としては疑問視されています。しかも囲碁史研究には学会もなさそう(遊戯史学会という遊戯全般の歴史を研究している会はあります。)なので、私は著者の業績や執筆態度(例えば出典の妥当性の検討状況を書いているなら資料の価値あり)で判断して出典を選んでいます。
確かに石谷廣策が秀策の布石書を出して秀策を宣伝したのが「後聖秀策」につながったのですが、その布石集には秀策流が一局もなく、明治から大正の囲碁人に疑問視されたものです。秀策に書いてもらった為書き付きの囲碁十訣を口絵に入れるなど自己宣伝もしっかりしてます。秀策が国許への手紙に「広二よりはいつも一銭の礼も請け申さず」「同人儀、存外不実の男…同人、口先ばかりうまい事」などとあり、秀策が石谷廣策を嫌い、国許にも信用するな、と書いているのです。秀策本人がダメだししている石谷廣策を記事本文に書く気にはなれません。改心したとも思えないのは先に書いたような事実が残されているからです。
「後聖秀策」の初出は『座隠談叢』の「秀策ハ聖棋神手ヲ以テ目サレル」と思われます。「棋聖」を「聖棋」とひっくり返したのは誤植なのか意図的なのか。
もちろん、秀策の棋力は現代の多くのプロ棋士が認めるところです。石田九段も「現代は、まだまだ秀策を超えていない」と書かれています。ただ、秀策は本因坊家の跡目に過ぎず、丈和とは2子局を打っただけだし、秀和とは常先のまま(一局だけ先互先の先番の可能性がある棋譜がある)で終わるのです。そんな秀策を「後聖」と称するのは江戸時代には論外で明治37年を待つしかなかったのだろうと考えています。
丈和と秀和と秀策の棋力の比較などはアマチュアには無理で、プロ棋士の間で定説として固まるまで百科事典には書きようがありません。
--塚本惠一 2010年4月24日 (土) 14:06 (UTC)遊戯史学会を注記--塚本惠一 2010年4月25日 (日) 18:54 (UTC)[返信]

念のために付記します。 名人の棋力比較は無理でも、史実と物語や伝説を区別して書くなら、「囲碁の最強者伝説」とかの記事を立てて、色々な文献で過去の名人の棋力に言及した話を書くのは構わないのではないかと思います。
例えば三国志の記事の整理はきちんとしていて、世間の誤解(三国史に書かれたと称して三国志演義の作り話を書く等)にとらわれないようになっています。
ただし、棋力比較には、いやになる位の俗説(牽強付会など)が流布しているので、Sugitaroさんが望まれている「整理」とは反対の記事になるかもしれません。例えば本因坊秀甫の「師の秀和は「秀策が明治まで長生きしていたとしても、おそらく秀甫に分があっただろう」と極めて高く評価」は、元の秀和の発言内容とニュアンスが違います。問題は「秀甫に分があった」で、この表現では秀甫の方が秀策より強い意となりますが、秀和が言ったのは「秀策でもうまくいかない」だったと記憶しています。秀和は秀甫に先互先の黒番2局をさらさらと勝って、秀甫に嘆きの言葉を言わせていますから、互先で自分と秀甫がどうかとか、互先で秀策と秀甫がどうかとか言ったと解釈するのも少々不自然なのです。この点は文献を確認して修正することを考えています。--塚本惠一 2010年4月24日 (土) 18:24 (UTC) 誤字修正--塚本惠一 2010年4月25日 (日) 09:46 (UTC)[返信]

上記の方針に沿って編集しました。--塚本惠一 2010年5月3日 (月) 11:36 (UTC)[返信]