ノート:真岡郵便電信局事件

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 8月25日20時の修正について解説。川嶋康男著「『九人の乙女』はなぜ死んだか」(1989年)と「九人の乙女 一瞬の夏」(2003年)が根拠となっているらしい記述が多いが、2008年8月にこれらの川嶋著を「全面改稿」して改題文庫化した「永訣の朝」が刊行されている。「永訣の朝」では前掲二作で辻褄が合わなかったり不自然だったりする部分について加筆修正がなされている。今回(2008年8月25日)の記事修正では、川嶋著については最新改稿版である「永訣の朝」を踏まえて記述を修正した。ただし、これまでの記事には前掲二作をソースとしたとしても不適切な記述、引用が多々ある。
 記事の各項目の修正について説明する。
 まず、「8月16日、樺太で緊急疎開が始まると」とあるが、樺太からの疎開は8月13日頃から始まっていた(「フレップの島遠く」P91 元交換手・藤本照子手記)。なお、「一瞬の夏」では真岡の疎開が16日からとなっているが、「永訣の朝」では15日になっている。「真岡町の緊急疎開は、八月十五日の谷町から始まった」(「永訣の朝」P25)また、残留交換手を募った経緯について、「形式的には残留希望者を募るものであったが、希望者少数の場合は強制残留が予め定められていたので、多くの局員には残留を拒むことは出来なかった」とあるが、これも実際の出来事と全く合わない。本文に記述したように、拒むことができなかったどころか、8月16日に全員が志願した際、わざわざ希望者を絞るべく家族と話し合って再考するようその場で指示がなされている。
 希望者が少ない場合の強制残留が予め定められていたというのも事実とは辻褄が合わない。本文に書いたように残留交換手の多くを経験年数の少ない交換手が占めていたし、残留交換手が24,5人からさらに2人抜けた後になっても古参の斎藤春子が引き揚げを許可されている。また、さらに言うと斎藤春子が、妹でなく古参交換手の自分が引き揚げると報告して認められたのは記事の通りだが、局長に報告した際、拒まれるどころか「ああそうか、そうしてください。道中気をつけて引き揚げるようにな」ている(「永訣の朝」P40)。斎藤姉妹のキャリアについて補足する。春子はキャリア12年の大ベテラン。妹・美枝子のキャリアは不明だが春子より6歳年下の当時21歳だからキャリアに歴然とした差があるのは明白だろう。
 「上田局長は郵便局から僅か200m程の所にある職員宿舎に滞在していたが、郵便局には最後まで姿を表すことは無かった。」というのはあからさまなミスリード。まるで簡単に局にたどり着ける状況なのに局長が職場放棄したかのような書き様だが、下敷きにしたであろう「一瞬の夏」ですら、局長が撃たれた巡査部長を助けようとして負傷したのち、ソ連兵に連行されたと書いていることは一応書いている。そして、ソ連軍の熾烈な攻撃、民間人に対する見境のない銃撃、出勤途中で射殺された交換手、銃撃が激しく局に行くのはとても無理だったという藤本照子手記等からしても記述は全く不適切。さらに言うと、郵便局は真っ先に攻撃目標となる警察署の隣にあるうえ、周りの建物が壊されてむき出しの状態だった。これらのことを含む、いかに郵便局が立地条件的にも危険な状況にあったかは当時交換手だった桜井千代子の手記(文芸春秋67年9月号)や元交換手・原君子の手記(「フレップの島遠く」P98-104)等で説明されており、これらの文献は川嶋著の参考文献一覧にも入っているのだが、川嶋著ではろくに言及がない。郵便局がいかに危険な状況にあったかは、情報を整理したのち、追記したい。
 「日本側から先に発砲したという点では、概ね一致している」というのも、出典として挙げられている文献をあたってみたが、事実と全く異なる。まず、「樺太一九四五年夏」は衛生下士官松本光雄がソ連側が空砲を撃ち、「艦砲もいつのまにか実弾に変わって市内各所で炸裂していた」と証言。松木重雄一等兵の手紙でもソ連軍艦が空砲を撃ち、「どちらが先に実弾を撃ちだしたかはわかならい」としている。著者の金子俊男の見解は「このような状況下で、どちらが先に実弾を撃ったか、正確なことは把握できない」。「女たちの太平洋戦争」の当時交換手・岩間信子証言でもどちらが先に撃ったかはわからないとしている。「日本側から先に発砲したという点では、概ね一致している」などとする文献は川嶋康男氏の著書くらいしか見当たらなから、これを根拠にしたのだろうが、川嶋著にしてもソ連側が先に空砲を撃ったことは認めている(ただし、川嶋氏は空砲であることを殊更に強調し、日本側に責任があるかのよう に書いている)。なお、川嶋氏は「これ(引用者注:ソ連軍が先に撃った空砲)に日本軍が反撃したと証言する関係者もまた多い」としているが、同著ではその多いはずの関係者の証言が一つも示されていない。それどころか、具体的に引用されているのは、ソ連が先に空砲を撃ち、どちらが先に実弾を撃ったかわからないとする前述の金子著と同じ証言。
 以上のことから「概ね一致している見解」を挙げるならば、ソ連が先に空砲を撃ち、実弾はどちらが先に撃ったかはわからないとするしかない。
 高石ミキと可香谷シゲの自決の記述は、あの書き様だとまるで緊張感に押しつぶされて青酸カリを飲んだかのよう。川嶋氏の見解などはまさにそうなのだが、高石や可香谷、他の交換手にせよ生前家族や知人に覚悟のほどを示している証言は山ほどあるし、川嶋氏の著書にもそれはたくさん書かれている(それだけに、川嶋氏の見解が浮いてしまう結果になっている)。また、いわゆる"パニック状態での集団自決"を否定する根拠は他にいくつもある。例えば、既述の「樺太一九四五年夏」には鈴木かづゑ(文献によってはかずえ)らが遺体を運ぶために郵便局に入った時の出来事として以下の記述がある。「睡眠薬のあき箱があることからみて、最後を見苦しくしたくない女性らしい心やりから睡眠薬を飲んだあと青酸苛里をのみくだしたのであろう」(「樺太一九四五年夏」P331)また、仮葬した遺体を発掘したときのことを可香谷シゲの母・あさはこう語っている。「シゲは手ぬぐいを首にかけ、制服の胸にネームがはいっていました。靴は足ひもでしばってあり、モンペは二枚はいていました。敏速な行動がとれるように靴をひもでしばったのでしょう。モンペは恥ずかしめを受けないよう重ねたのだろうと想像できます。極度の緊張、恐怖の中で、若い娘らしく身づくろいしたさまが目に浮かびます」(同著P333)
 次に高石が最初に自殺した云々の記述だが、熾烈な銃砲撃の真っただ中で交換室にとどまり業務を続けていることだけでも大変なことなのに、高石は部下への適切な指示や上司の連絡もなく、最初に自殺したなどと書くのは、死者への冒涜にもほどがある。そもそも、自殺時の状況ははっきりしていない。記事に書かれている状況は岡田美恵子証言をもとにしたらしい「一瞬の夏」が根拠だろうが、元交換手桜井千代子の手記(「文芸春秋」1967年9月号)にある川島ミキ子(服毒するも量が少なかったため生還)の証言は「一瞬の夏」の記述とは異なる。それによると、古い人から順に薬をわけてもらって服用したとある。
 「実際、金品の没収はあったが、被弾することも陵辱されるようなことも無かった。」は「実際」は前提となる文が修正途上で削除されたか、文章上意味不明なので削除した。また「金品の没収」とあるが、ソ連兵の行為は全く正当なものでないので、「没収」というのは不適切。
 映画「氷雪の門」関連ではまず、映画の全体の構成について誤解のないよう補足した。女子交換手の話が主軸ではあるが、映画全体はソ連侵攻前から8月20日までの樺太の流れを追う形になっている。「史実と大きく異なっている」というのは、「一瞬の夏」等過去の川嶋著を根拠に、郵便局の実態は映画と違うということなのだろうが、それについてはまず今回の修正内容を読んで頂きたい。また、それでも事実と映画に違いはあるが、疎開後も留まった女子交換手たちがいて、最期まで業務にあたったのち自決したという柱の部分は同じなので、真岡郵便局の件に限っても「史実と大きく異なっている」とするのは不適切。
 映画配給中止の背景については、営業政策の変更というだけでは不明瞭なので、タス通信の報道や監督の回想といった背景を補足した。--MOK0820 2008年8月25日 (月) 11:31 (UTC)[返信]

この事件は真岡郵便電信局事件あるいは真岡郵便局事件と言うべきであって、「北のひめゆり事件」と言う名称はおかしいと思います。 確かにゆめゆり部隊の自決と同様、罪の無い民間人が軍国教育の洗脳のままに後先を考えず自決してしまった悲しい事件ですので、同じ問題意識で見つめることができると思います。 しかし、現地樺太においても、旧住民の間でも「北のひめゆり事件」と言う言われ方をされたことがありません。 この事件の根本資料である「逓信文化S40.11号」や「樺太終戦史」でそのような呼び方をしているならともかく、そうでないなら、やはり、このような呼び方をすべきではないでしょう。 しかも、この事件は史実を大きく異なっていることが現在判明しています。 事件を伝えた真岡郵便局長の証言が実は伝聞にもとずくものであり、服毒した人数も、最初に事件を報告した交換手も、ソ連軍の郵便局侵入も、根本資料である「逓信文化」「樺太終戦史」ともに間違っていたことが明らかになっています。 なお、この事件で服毒しなかった5名の交換手のうち、少なくともお一人はがご健在でサハリンとの交流事業に時々参加されています。 内容的に誤りである樺太終戦史を孫引きしただけで、しかも一般的でない名称を用いて、読者に誤解をあたえかねないこの記事は閉じてしまってよいのではないでしょうか?--210.139.100.42 2007年1月日 (火) 23:02 (UTC) (履歴より署名追加 SSST

210.139.100.42様こんにちは、SSSTと申します。私は資料を持っていないため、取り合えずネットで判明した碑文の内容と、中立的に映画の紹介を書いたつもりです。貴方様は、この件に関しての知識をお持ちの様なので、記事名以下を書き換えては如何でしょうか、その方が有意義だと考えます。ただ、もし事件が虚構であれば、削除に賛成いたします。--SSST 2007年1月14日 (日) 08:34 (UTC)[返信]
確かに「北のひめゆり事件」など聞いたことが無い。「真岡郵便電信局事件」「真岡郵便局事件」と言われているはずです。上に書いた方は、おそらく誰かが書いたサハリン旅行の報告を読んだ方ではないでしょうか。北海道やサハリン関係では案外あちこちで目にします。また、確かに真岡郵便局事件の生き残りの方がサハリンへの船に乗っていたことがあるそうです。私も、その方と同船した知人から、間接的にお話を伺ったことがあります。--210.164.1.71 2007年2月3日 (月) 04:03 (UTC) (履歴より署名追加 コリアンジャパニーズ[返信]

改名提案[編集]

「真岡郵便電信局事件」への改名を提案します。--コリアンジャパニーズ 2007年2月16日 (金) 20:25 (UTC)[返信]

賛成。--210.164.1.72 2007年2月23日 (月) 05:48 (UTC) (履歴より署名追加 コリアンジャパニーズ[返信]

一週間経過しました。賛成のみと言う事で、記事名を変更します。--コリアンジャパニーズ 2007年2月26日 (月) 17:58 (UTC)[返信]


映画の配給が停止された理由について『一般的にはこの映画について快く思わない当時のソ連から圧力があったためといわれている』の記述を削除しました。 この映画は史実に基づかない内容だったため、映画上映前に、ソ連国営タス通信から批判されていたことは確かです。しかし、これは普通な批判でした。映画配給会社は混乱を避けるために自主的に配給を停止したのであって、何らかの圧力が働いたとの事実はありません。 なお、外交チャネル等を通じた具体的圧力が有ったことが分っているならば、具体的な記述をしてください。Lib 1964 2007年3月26日 (月) 23:59 (UTC)[返信]


真岡郵電局にソ連兵が現われたときに、男性職員のみが対応した理由に『東欧や満州・朝鮮でのソ連兵による殺人・強姦・略奪・強盗・暴行などの犯罪行為が日常的に行われていたため、最初は男性局員のみが応対し女性は隠れていたが』と書かれていましたが、事実に反すると思われるので削除しました。
ソ連参戦から間もない8月20日の段階で、一般の郵電局職員が前線の混乱状況を把握していたとは考え難いものです。軍中枢部の関与で真岡郵電局事件がおきているならば、前線の情報を入手していた可能性もありますが、今のところ、真岡郵電局事件に軍が関与していたとは考えられていません。
戦争中、日本軍は占領した各地で、強姦・虐殺を行っており、このため、日本人の多くは、占領されると、同じような目にあうとの認識があったことは確かです。このような、漠然とした認識の元、男性局員のみが対応したと考えるのが適当でしょう。実際、満州奉天では地元長老会が、日本軍相手の慰安婦を集めて、ソ連兵の相手の慰安所を作っていることや、米軍相手の慰安所開設を日本政府がGHQに打診していることなど、兵士の強姦を当然視する対応が知られています。もっとも、見知らぬ人が家に来たとき、女・子供は奥に引っ込んで、男性が応対することは、ごく普通に行われているので、取り立てて理由を詮索しても仕方ないことと思います。
昭和23年ごろの雑誌『函館郵燈』には、真岡のほか、ソ連占領下の大泊、豊原、恵須取などの郵電局の状況が記載されています。これによると、どこでも、日ソ局員が協力して業務にあたっています。ソ連の接収は粗っぽかったので、これを強奪と考えた局員もあったようですが、強姦被害におびえるような話はありません。
なお、一般郵電局職員が前線の混乱状況を把握していたこと、および、そのために、男性職員のみが対応したことが、平田主事ら男性職員や、薬丸ひろ子ら女性職員の証言が明らかな場合は、その旨記述してください。Lib 1964 2007年3月27日 (火) 01:53 (UTC)[返信]

1.『一般的にはこの映画について快く思わない当時のソ連から圧力があったためといわれている』や『東欧や満州・朝鮮でのソ連兵による殺人・強姦・略奪・強盗・暴行などの犯罪行為が日常的に行われていたため、最初は男性局員のみが応対し女性は隠れていたが』これらについては真実でしょう。
夫や親兄弟の目の前での強姦(十歳前後の子供から老女まで強姦されたという話は良く目にします。)や住民の家に押し入っての略奪の証言などはインターネットで検索かけても沢山出てきますし、そのような記述をした書物(書名失念)も何度か見かけたことあます。
2.『ソ連参戦から間もない8月20日の段階で、一般の郵電局職員が前線の混乱状況を把握していたとは考え難いものです。』これについて、東欧の状況はソ連対日参戦の数ヶ月前であること、満州・朝鮮への積極的な侵攻は樺太よりも早かったことから、ソ連占領地域の状況は伝わっててもおかしくありません。
3.『戦争中、日本軍は占領した各地で、強姦・虐殺を行っており、このため、日本人の多くは、占領されると、同じような目にあうとの認識があったことは確かです。』この部分こそ信憑性は薄いかと。
なぜなら、
  • 仮に真実だとしても都合の悪いことを日本の軍や政府が国民に知らせるとは思えない
  • 中国共産党は南京虐殺などを捏造している(当時南京の人口は20万人、虐殺されたとされる犠牲者数は30万~40万人、文化大革命で粛清された犠牲者を埋めた万人抗や国民党と共産党の内戦でのおびただしい死体の写真を日本の蛮行宣伝に利用している)
4.『昭和23年ごろの雑誌『函館郵燈』には、真岡のほか、ソ連占領下の大泊、豊原、恵須取などの郵電局の状況が記載されています。これによると、どこでも、日ソ局員が協力して業務にあたっています。』侵攻当初ソ連兵の強姦や略奪が行われていたとしても、年数が経ち治安も回復してくれば、そうなっても不思議は無いかと。

121.113.230.84 2007年3月27日 (火) 03:58 (UTC)


あまりにも記述がでたらめすぎます。事実を書くのであって、憶測を書かないでください。
まず第一に、「ソ連占領地域の状況は伝わっててもおかしくありません。」は、貴殿の単なる憶測でしょう。「おかしくない」と「そうである」は全く異なります。もし事実であるのならば、真岡郵便電信局員が知っていた事実を明確化すること、および、どの局員が、どのような判断で、女性を最初に出さなかった、あるいは出なかったかの事実を明らかにする必要有ります。誰の証言なのですか?あるいは、出典はどこですか? 
強姦があったということと、強姦が有ったことを知っていたために、それが主たる理由で女性たちが表に出なかったということは、全く異なります。強姦があったことの出典ではなくて、強姦が有ったことを知っていたために、それが主たる理由で女性たちが表に出なかったことの、出典を明示ください。私の知る限りそのような資料はありません。私も、貴殿の記述を削除したくないのです。当時、局員がどのように思ったのか、こういうことは、非常に難しいことです。出典を明示できないような憶測は書かないでください。
『仮に真実だとしても都合の悪いことを日本の軍や政府が国民に知らせるとは思えない』この記述には失礼ですがちょっとあきれました。シナ事変から15年も経っています。外地に出征した日本軍兵士が日本に戻っています。在郷軍人もたくさんいます。シナ事変から15年経っていることを、学校では習わなかったのですか?なお、私の書いた『戦争中、日本軍は占領した各地で、強姦・虐殺を行っており…』以下の文章は、本文の記述とは関係ないことです。
『侵攻当初ソ連兵の強姦や略奪が行われていたとしても、年数が経ち治安も回復してくれば、そうなっても不思議は無いかと。』とお書きですが、もう少し詳しく説明すると、日ソ局員が共同で仕事をしていたのは、日本人が引揚げる前です。当たり前ですよね。『函館郵燈』の記事は、年数が経ち治安も回復してからのことではなく、せいぜい1ヵ月後から数ヵ月後の様子です。出版は引揚げ後なので、数年後になります。
なお、事件の経緯の項目は、川嶋の本を参考にしています。これ以外のものを参考にしている場合は、その旨記載ください。

Lib 1964 2007年3月27日 (火) 05:17 (UTC)[返信]


ルポルタージュと映画の部分には北海タイムスの『樺太ものかたり』に触れられていません。初出を書かないのも、おかしなことなので、誰も書かないのならば、私が、今後記述を改めます。Lib 1964 2007年3月27日 (火) 05:25 (UTC)[返信]

Libさん、真岡でのソ連兵の強姦や略奪など書き加えられると、あなたは「事実と異なる」と書き換えられますが、ソ連占領地域でソ連兵による強姦や殺人などの犯罪が行われなかったという根拠は何でしょうか?憶測や願望でソ連兵の犯罪が無かったというのでは良心がない。むしろ、あなたがすべきことは、民間人に対する無差別発砲・乱射も含めソ連兵による犯罪がなかったということを証明することではないでしょうか?

121.115.92.105 2007年3月27日 (火) 05:42 (UTC)

私が削除する理由は2つあります。
大きい理由。貴殿の記述では『(強姦等が)日常的に行われていたため、最初は男性局員のみが応対し女性は隠れていた』となっています。この記述をするならば、『男性局員のみが応対し女性は隠れていた』理由が、『(強姦等が)日常的に行われていたため』であることになります。それには、そのように主張する根拠が必要です。男性局員のみが応対した理由は他には無かったのか、そういう検証が必要です。強姦等が起こったか否かということと、男性局員のみが応対した理由が、それであったかどうかということは、完全に別の話です。『真岡でのソ連兵の強姦や略奪など書き加え』ることが、事実と異なるなどと誰も言っていません。
小さい理由。事件の経緯の項目は、川嶋の本を参考にしていると、書いています。ここに、川嶋本以外の記述を書くならば、川嶋本以外に参考にした出典を明らかにする必要が有ります。貴殿の記述のままでは、川嶋本に当該記述があるかのような誤解を与えます。
なぜ、出典を書かないで、あたかも、川嶋本の記述であるかのような記述をするのですか。
再三お願いしていることを繰り返します。記述の出典を明らかにしてください。Lib 1964 2007年3月27日 (火) 07:32 (UTC)[返信]
ところで、略奪は正しいのでしょうか。ソ連は軍事占領なので、国際法上は施政権があるため、接収の権限が有ります。ソ連兵は、強引だったので、略奪と感じた場合が多かったようですが、法的には接収である可能性があり、検討が必要です。このあたりの国際法上の検討をしているのならば、その旨書き加えてください。Lib 1964 2007年3月27日 (火) 07:44 (UTC)[返信]
Libさん、こんばんは。ソ連兵が一般市民の住宅に小銃を突きつけ上がり込み、物色し勝手に金品から家具に至るまで住人の了解も得ずに持ち出すのが略奪ではないのでしょうか?少しでも拒むと射殺された者までいたという証言もありますし。
少なくとも、米兵のこのような話はほとんど聞いたことありません。あなたはソ連軍侵攻時どのような状況だったとお考えなのでしょう?
一般市民の生命・財産を暴力で脅かすのは国際法違反であり、占領政策のもと行政機関や鉄道・報道機関などを接収するのとは訳が違います。そもそも、ソ連は条約に反して攻め込んている時点で国際法違反であり、国際法上合法的な施政権があるわけではありません。

219.167.136.10 2007年3月27日 (火) 9:48 (UTC)

そもそも、ソ連は条約に反して攻め込んている時点で国際法違反」というのは必ずしも広く認められた考え方ではないかと存じます。 -- NiKe 2007年3月28日 (水) 00:24 (UTC)[返信]
真岡郵便局の対応とソ連軍の強姦等に因果関係が有るかのような記述の問題点を指摘していたのであって、ソ連軍の強姦等があったことを説明すること自体は正しい記述だと思います。Lib 1964 2007年3月27日 (火) 23:52 (UTC)[返信]


映画上映停止の理由に対して、ソ連の圧力説を一般的に言われるとの記述に対して、一般的の文言を削除しました。歴史の問題で、一般的に言われるというと、歴史学界の定説であるとの意味があります。ここに、一般的に言われると書くと、虚偽の記述になります。また、映画は事実と異なる点を明示しました。インターネット等をみると、映画を史実と誤解している人が多数存在し、この、ウィキペディアの初期の記述も、同様の過ちを犯していました。非常に重要な点です。Lib 1964 2007年3月28日 (水) 00:34 (UTC)[返信]
具体的に史実と異なる部分を詳細に記述すべきかと。それを書かないと、この項目はソ連寄りの偏った項目という誤解を与えます。箇条書きでよろしいので、お手数で大変恐縮ですがよろしくお願い申し上げます。121.113.225.161 2007年3月28日 (水) 04:59 (UTC)
具体的に史実と異なる部分を詳細に記述すべきとのご指摘ですが、この問題に関しては、多くの方のご協力が必要です。なお、ルポルタージュや映画が史実と異なるという事実については、川嶋の本にも記されていることであり、現在間違いのない事実と考えられていることなので、史実と異なるという記述事態は残すべきです。なお、ソ連の抗議云々は、ソ連の圧力という事実と認定されていない噂話のつけたりの説明なので、本質でないため削除したほうが良いかもしれません。Lib 1964 2007年3月28日 (水) 05:28 (UTC)[返信]
(補足です)ここは、真岡郵便局事件の説明であって、映画の説明ではないので、映画が事実と異なる点の詳細を書く必要はないでしょう。映画が作成された事実と、映画は事件を題材としているだけであって、事件の記録映画・説明映画ではないことを示せれば充分ではないではないでしょうか。映画に付いて詳しく書くのならば、別の表題を設けるべきでしょう。Lib 1964 2007年3月28日 (水) 07:29 (UTC)[返信]


この項目には川嶋著書の内容を中心に記述してあり、比較できる記述もコメントアウトしてあります。この項目を目にするのは川嶋著書を読んでない人も多いので、具体的な相違点の記述はやはり必要ですね。わかりやすく箇条書きでよいと思います。ただ、映画やルポタージュ全てが事実と相違し、「虚偽の反ソ宣伝」であるかのような誤解を与える表現はまずいと思います。
それから、ソ連の抗議やソ連の圧力といったことについては断定しなければ記述があってもよろしいでしょう。映画が配給中止になってから実際にそう言われることが多かったのですから。125.205.197.160 2007年3月28日 (水) 05:56 (UTC)


質問です。映画の上映は、「冷戦終結・ソ連崩壊後」なのでしょうか。私は、映画をもっと以前に見たような記憶があります。自主上映は、冷戦終結とは無関係に行われていたと思っているのですが、いかがでしょうか。Lib 1964 2007年3月28日 (水) 06:01 (UTC)[返信]
ソ連の圧力が原因で配信が停止されたと思えるような記述は、出典を明らかにしないで、書いてよいのでしょうか。映画配信会社が、ソ連政府に従属しているか、あるいは弱腰であるかのごとき印象を与えかねません。場合によっては、会社の信用を傷つける可能性のある記述は、無責任に書いてはいけないと思います。125.205.197.160のかたを含め、皆様いかがでしょうか。Lib 1964 2007年3月28日 (水) 06:26 (UTC)[返信]


Lib氏、125.205.197.160氏などこれまで一連のやり取りを見てひとこと言わせてください。
以下、川嶋氏の著書が綿密な取材の元書かれ比較的信憑性もある本であることを前提に書きます。ただ、川嶋氏がどのような思想・価値観のもとで書かれたかによって情報の取捨選択・文章表現もかなり変わってくると思います。真実を追究し中立的に書くつもりでも、ある程度はどうしても主観が入ると思われます。
彼の著書が信憑性高いと思われても、自分の目で実際に見たわけでもないのに「絶対真実だ」と断定してしまうのはある意味危険ではないでしょうか?この「真岡郵便電信局事件」の項目を編集するにあたって、本文中に川嶋氏の著書を参考に書いた旨明記し、その上でこの事件に関するその他の著書や映画との比較・相違点を書く程度にとどめる方が良いよのではないでしょうか?一つの著書のみを「絶対的真実」と断定するのにはあまり関心しません。220.108.36.72 2007年3月28日 (水) 09:38 (UTC)


220.108.36.72 氏にお答えします。
川嶋本の内容がすべて史実であるとは思っていないし、そのような主張もしていません。ただし、真岡郵便局事件を史実を明らかにすることを目的に書かれた本は、今のところ川嶋本しか私は知らないので、これを基本的に参考にしています。(山下氏の本も一部では参考にしています。)私は、一連の議論で、自分の考えが正しいと主張しているわけではなく、出典を明らかにしてくれるように再三にわたってお願いしています。それだけですよ。一連の議論で、誰も出典を明らかにしないのはなぜでしょうか。
それから、ずいぶん誤解をなされているようなので、ご説明します。映画では、全員が死亡したかのようになっていますが、実際には生存者が3名おって、そのうち2名は現在もご存命かも知れません。2名のうちの一人である岡田さんは、ソ連崩壊後に真岡に渡って、仲間の慰霊をしています。ご本人の証言等もあります。ただし、私はこの分野の研究者でないので、出典が分らず、引用していません。このように、映画が史実と異なるということは、川嶋本の記述だけではなく、公知の事実といっても過言ではないほどのことです。この説明で、ご理解いただけましたでしょうか。この件について疑問があるのならば、ここにお書きいただければ、私が知っていることならばお答えします。Lib 1964 2007年3月28日 (水) 09:11 (UTC)[返信]
ところで、以前「真岡郵便局長の証言は伝聞に基づくものであり、間違いはあきらか」と書かれている方が見受けられましたが、精力的に取材なされた川嶋氏の書についても伝聞に基づくものではないのでしょうか?
事件からまだ日が浅い伝聞の郵便局長の証言と、事件からかなり時間が経過してからの取材をし40数年後に出版された川嶋氏の書。川嶋氏自身は1950年札幌市生まれで当然事件直後に聞き取りなさったわけではありません。金子俊男氏の『樺太一九四五年夏-樺太終戦記録-』でさえ戦後20数年後の出版、川嶋氏の書はそれからさらに15年以上後(戦後40数年)の出版であることは考慮すべきかもしれません。121.113.239.194 2007年3月28日 (水) 22:15 (UTC)
川嶋氏の本と金子氏の本を比べると分ると思いますが、川嶋氏の本では証言の整合をはかって検証しています。それに対して、金子氏の本は証言になるべく手を加えないで紹介しています。このため、川嶋氏の本は歴史解説の体裁になり、金子氏の本は小説のようになっています。この事件にはいくつかの重大な点が有ります。①青酸カリはどこから入手したのか②高石が自殺した原因は何か③局長が出局しなかった理由は何か。このような重要な点について、川嶋本では明らかにされていません。確証が得られていないのです。結局、金子氏の本は信憑性よりもストーリーを重視し、川嶋氏の本は信憑性を重視しているのでしょう。
電話交換手全員が死亡したのか、それとも、生存者がいたのかという、きわめて重要な点について、川嶋氏は伝聞ではなくて、実際に生存者に面会され、確認しています。当時16歳だった岡田さんの証言は伝聞に基づくものではなく、ご本人の経験に基づくものです。ご本人の証言と伝聞とは違います。
「真岡郵便局長の証言は伝聞に基づくものであり、間違いはあきらか」との主張は「伝聞に基づくから間違いである」と言っているならば、それは正しくないでしょう。伝聞を元にそれを検証することは近代史研究の手段ですから。「真岡郵便局長の証言は伝聞に基づくものであった」との事実と「現在では、間違いであることが確認されている」という2つの関連性がないことを言っているならば、有る程度納得できます。ただ、局長の手記は、自分の経験と伝聞との双方に基づいています。局長の証言には嘘があるようなのでそこが問題です。Lib 1964 2007年3月29日 (木) 00:20 (UTC)[返信]
証言の整合はかるということは、取材した内容に手を加えるということですな。つまり、事実よりも主観が入ってもおかしくないということになりませんか?その方がストーリー重視で小説的なまとまりになると思われますけど。
また、真岡郵便局長の証言に嘘があるようだとのことですが、具体的にどのような嘘なのでしょう?ただ「嘘がある」と言われても、そのまま鵜呑みにする人はいないと思います。220.109.25.105 2007年3月29日 (木) 04:13 (UTC)
詳しいことは、金子・川嶋両氏の本を読めばよく分ると思います。本は、大きな図書館には置いてあります。もし、まだお読みになっていないのならば、週末にでもお読みください。なお、本がみつからない場合は国立国会図書館に有ります。金子氏の本は請求記号GB541-40 、川嶋氏の本はGB541-E52です。さらに、GB541-H19 もあります。付け加えますと、山下精一氏の本はなかなか見つからないと思います。
「ただ「嘘がある」と言われても、そのまま鵜呑みにする人はいないと思います。」とお書きですが、私はご自身で勉強される気持ちのある人に材料を提供することはできても、私の説明を鵜呑みにしても良いような説明をする気はありません。あしからず、ご諒解ください。説明に出典を明示するように再三にわたってお願いしているのも、勉強に役立つためです。Lib 1964 2007年3月30日 (金) 00:11 (UTC)[返信]
それから、「金子氏の本は証言になるべく手を加えないで」書かれていると書きましたが、実際には、取材した内容に手を加えるということで、『ものかたり』にしています。そうしないと、ストーリー重視で小説的なまとまりになら無かったのだと思います。ご存知と思いますが、金子氏の本は、新聞に連載された、樺太のものかたりを出版したものです。
電話交換手全員が死亡したのか、それとも、生存者がいたのかという、きわめて重要な点について、川嶋氏は伝聞ではなくて、実際に生存者に面会され、確認しています。当時16歳だった岡田さんの証言は伝聞に基づくものではなく、ご本人の経験に基づくものです。ご本人の証言と伝聞とは違います。生存者の存在が、映画のストーリーが史実と異なる最大の点です。もっとも、映画は史実であるとは言ってないですよね。脚色しないと映画にはならないですから。220.109.25.105 さまは、いろいろな本を読んだ上で、生存者の存在について疑問を出されているのですか。なお、生存者の存在について疑問のかたは、その旨ご説明ください。Lib 1964 2007年3月30日 (金) 00:35 (UTC)[返信]
中立的な観点に対して疑問が出せれました。川嶋氏が史実を解明することを目的にして書かれた本と、金子氏の「ものかたり」を、両者を読むこともしないで、疑問を出されたものと思います。だいぶ日数も経過しました。既に両者をお読みになっていると思いますが、それでもなおかつ、中立的な観点に対して疑問がおありでしょうか。もし、中立的な観点に対して疑問があるならば、明示ください。もし、疑問がないのであるならば、中立的観点の疑問は削除したいと思います。
現在、映画のストーリーをもって、事件の概要と説明されています。もともとの記述は、「私は資料を持っていないため、取り合えずネットで判明した碑文の内容と、中立的に映画の紹介を書いたつもり」と書かれております。事件の経緯ではなくて、事件に関連して作られた映画の紹介でしょう。映画の紹介を「事件の概要」と書いた人へ質問します。映画のストーリーが、事件の概要とした根拠を示してください。映画の作者や、「ものかたり」の著者は史実といっていないはずです。どのような理由で、史実であるかのように書かれたのでしょうか。もし、特に理由もなく、さらに、金子氏や川嶋氏の本も読まずに、このような記述をされたのであるならば、この部分を削除したいと思います。Lib 2007年4月9日 (月) 06:52 (UTC)[返信]
4月9日に記述を修正する旨提案しました。すでに10日経過しましたが、何のご意見も無いので、提案どおり、記述を修正します。映画配信停止の理由の「ソ連の圧力」との記述を削除しました。この記述の議論の中で、ノートで3月28日に、「場合によっては、会社の信用を傷つける可能性のある記述は、無責任に書いてはいけないと思う」旨記述し、書いた方の意見を求めましたが、何の回答もありません。無責任な記述の可能性があるので削除しました。金子俊男の本は新聞連載の出版物なので、原作を先に書きました。また、松山善三の小説にも触れました。また、参考文献に谷川美津枝の本を加えました。Lib 1964 2007年4月19日 (木) 00:22 (UTC)[返信]

2011年6月2日 (木) 18:56 の修正概要を解説。 死者数が前回の改版で間違った人数に書き換えられているので修正。 既に本文に書いてあるように、自決した交換手以外にもソ連兵による爆殺、射殺で死亡した職員がいるので他の職員は生還と書いているのも間違い。これも修正。 疎開命令と残留に至る経緯を詳しく追記。 --MOK0820 2011年6月2日 (木) 19:05 (UTC)[返信]

2011年6月2日 (木) 20:13 の修正概要を解説。 川嶋説は辻褄が合わない点を補足説明した。 銃砲火やソ連兵による防空壕への手榴弾投下などにより、自決以外でも10人にのぼる死者が出て、局内の交換機にまでも弾痕があった状況で、局内にソ連兵が入ってきた時、あたかも非常に安全であったかのように書いているのは実情にそぐわないので削除。真岡が落ち着いたのもずっと先。 --MOK0820 2011年6月2日 (木) 20:23 (UTC)[返信]

意見[編集]

外野から失礼します
ざっと よんでみたけども 図書館において開架展示されるものは
戦後の秩序に基づく基準で展示されているものが多く それ以外の文献を閲覧したい場合、
閉架処理されている書庫の文献をあたる必要がある。
記憶が確かならば ソ連侵攻の際に町にあった水産物加工工場の従業員、女性がおおかったらしいが
従業員400名が北海道本土へ脱出している。
異見(異なる見識で異見)はあるが 郵便局は当時 電信電話など連絡手段でもあり情報の最前線。
ソ連が批判していて圧力はない のではなく 批判=圧力と考えるべきで 事実は
1、日米の停戦(が八月十五日終戦は九月ソ連はこの立場)後に
2、ソ連侵攻があって真岡郵便局の交換手たちが服毒自殺したこと。
3、なぜ交換手が服毒自殺しなければならなかったのか。
「真実は立場の数だけある」が「事実は一つしかない」と思いますね、
また、証言を重視しておられるようですが、人間というのは苦しいことを良い思い出にしてしまい
意図せず誇張するとか。
これは大脳生理学で判明しているとのことですので「参考にはなりますが、根拠にはなり難い」
ということです。
稚内にある稚内公園(望郷の丘)にある碑の文言は設置時と現在の文言がかわっております。
かつての碑文は下記のようなもの。
昭和二十年八月二十日日本軍の厳命を受けた真岡電話局に勤務する九人の乙女は
青酸苛里を渡され最後の交換台に向かった。
ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるまま青酸苛里をのみ最後の力をふりしぼって
キイを叩き「皆さんさようなら。これが最後です。」の言葉を残し夢多き若い命を絶った。
現在の碑文には
戦いは終わった。それから五日後、昭和二十年八月二十日ソ連軍が
樺太(サハリン)真岡に上陸を開始しようとして民間人を守るべく残留していた
日本軍との間に突如戦いが始まった。
戦場と化した真岡の町、その中で交換台に向った
九人の乙女らは死を以って己の職場を守った。
窓越しに見る砲弾の炸裂刻々迫る身の危険
“今はこれまで。”
と死の交換台に向かい「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」 の言葉を残して静かに青酸カリを呷り夢多き若き尊き花の命を自ら絶ち職に殉じた。
戦争は再び繰り返すまじ。平和の祈りをこめ尊き九人の乙女の霊を慰む。
編集時参考になれば。旧軍が悪という価値観からぬけださない限りは編集合戦の繰り返しになると思います
出典?は拙ブログ(笑)

http://blog.livedoor.jp/kaorukusano_1-funman/archives/51663788.html 

ネットだけですが色々しらべてかきました。<http://blog.livedoor.jp/kaorukusano_1-funman/archives/51663788.html> --河童工房会話2017年12月16日 (土) 11:04 (UTC)[返信]