ノート:田中権内

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田中権内 == 大庄屋田中(本姓中村)権内は喜左衛門ではありません。供養塔建立の施主は、 田中権内 (黙翁道淵信士)正徳三癸己歳(西暦:1713年)没で理正院過去帳に記載されております。田中治兵衛とは、権内の父ではなく系譜では子であり養子です。   供養塔建立の施主、と砥部騒動の権内とは別人です。

証拠、権内は西暦:1713年正徳三癸己歳に没しており、砥部騒動は西暦:1741年(寛保一年)です。 その他の記録

田中喜左衛門権内 寛保元年(1741)砥部騒動。とありますが、 砥部騒動は田中喜三右衛門義貴(金湯軒宝城良地居士)天明四年 甲辰年二月二日病死 八十一歳 西暦:1784年没 大庄屋-下奉行ちなみに系図には 拝領地住居の祖也委き事は拝領地相続世 代覚えにあり 西暦:1750年 寛延三年十月十日大庄屋廃止      西暦:1752年 宝暦二年庄屋株を高橋仙右衛門に売った。 西暦:1754年 宝暦四年御普請方下奉行拝命  西暦:1754年 仝四年二月御普請方新八郎相続

田中権内は料澤村白滝城主中村主殿守の子孫であり初代大庄屋中村喜三衛門 源王宗休大石塔は 松山藩主 加藤左馬介嘉明公より大庄屋を命ぜられて以来その 職を世襲す   砥部庄屋宮内村に住 十七ケ村の庄屋十六人 組み頭二十五人町年寄一人五人組み四十八人也 砥部騒動の田中権内は田中喜三右衛門義貴(金湯軒宝城良地居士)である。

一説 『砥部騒動』 砥部庄の田中(本姓中村)家は初代喜三衛門が松山藩主加藤嘉明の時代に大庄屋を命ぜられて以来その職を世襲した。1635年 寛永十二年 大州藩主加藤泰興が願い出ていた替地が許され、松山領地の一部が大州藩領地に替わった時、田中家は大州藩にもそのまま大庄屋職が認められた。

大庄屋勤務三十七年におよび、1741(寛保一年)田中家は家計不如意に陥り、財政立て直しの為藩の支配を乞い、村々百姓へも支配米を賦課した上、大庄屋への役人用等も多額に徴収した。 諸村農民はその負担に堪えかね、大州藩には大庄屋名目は無かったことから、砥部谷内十七ヵ村の百姓らは、1742(寛保二)年の春(『御替地古今集』は寛保元年とする。)、「大庄屋なしに成し下され度」とこぞって訴願し騒動に及んだ。『上唐川影浦家文書』「永代日記帳」(影浦桂一蔵。)  大州藩は徒党強訴とみなし、「右願い不届」と頭目を追求

代官瀬尾彦右衛門・志鳥助七は、上野村庄屋玉井儀兵衛・下唐川村庄屋菊沢九左衛門に取り調べを命じた。玉井・菊沢は事件審理に当たり、首謀者は北川毛村庄屋善兵衛および川登村百姓佐次衛門で、速累は五本松村庄屋向井忠助であることが明らかになった。藩は頭取処刑に決定し、1742(寛保二)年七月二七日、善兵衛・佐次衛門は暫罪に処せられ、忠助は庄屋取り上げの上領内追放、主だった百姓も追放された。 この事件に付いては、藩は徒党強訴と判じ訴願を審理せず、田中権内を擁護する立場をとったようである。大庄屋田中権内は1750(寛延三)年10月10日藩から大庄屋の廃止が申し渡され、宮内村庄屋株は高橋仙右衛門に売った。田中権内は1754(宝暦四)年に大洲藩の御普請方下奉行に命じられた。 (『上唐川影浦家文書』・『御替地古今集』・『大州旧記』こうして大庄屋排斥に立ち上がった十七ヵ村訴願一件も、結果的には大庄屋廃止を勝ち取った。

庄屋が破綻に臨んで「支配」を受ける者が多くなった。(支配とは、庄屋の財産整理を藩と村で管理援助により復活させようとする制度)大洲藩は村民にも負担が掛るので1807年文化四年元立救米三百石を替地に与え浮米から百石を加算し村役人によって管理させた。 「三百石の元米永代元を取り欠かざるよう取計らわるべく候」と言う事で貸米として利殖が計られた。郷とは一群一村を言い約とは申し合わせ相守るを言う。この四百石の米は郷約米と名付けられた。 庄屋支配援助として出発した郷約が、次第に農民相互扶助の度合いを強めて行き、やがて郡中全体の銀行的職能を果すように転移した。 --Kanbow 2007年11月18日 (日) 13:55 (UTC)[返信]