ノート:物象化

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「諸物の関係の中ではじめてその性質が表れるにもかかわらず、それ自身が性質を持っているかのように間違うことをいう。」この表現そのものに問題があるように思います。「物象化」とは、物そのものが性質を持っていると見ることが「間違い」と言うのではなく、諸関係が物の性質として見えること、ひいては諸関係の結節に過ぎないのにそれを物として捉えるということを言っていると思うのですが。食べている当人にとって、リンゴのおいしさがリンゴに属すると思っても構わないでしょう。おいしさという一人ひとりの感じ方に過ぎない例だけではなく、大多数の人々が物の性質と見てしまう事柄も、実は諸関係を物の関係と捉える規整が働いていること。間違い云々ではなく、物の関係として現象しているという主張ではないでしょうか。--石井彰文

前半同意。「錯誤」とか「間違う」という理解では全く本質をついていないのでは? また「見える」訳でもなくて、(「貨幣」というより)「商品」→「資本」があたかも物体のように自律的に運動し、人間を支配している、といった事態を指していると思われます。単に思い込みを是正すればよいのであれば革命の必要もないでしょう。(と言って、書き直すほど理解している訳ではないですが) --忠太 2006年3月28日 (火) 16:51 (UTC)[返信]

忠太さんから部分的な同意をいただきましたが、同時に見解の相違も指摘されました。改めて、原文への疑問を書いてみます。

 原文を三つのパラグラフからなると見て取り上げます。最初のパラグラフで、マルクスの用語であるとしているのは、異論はあり得るにしても妥当なことだと思います。しかし、「人間が、...のように錯誤する現象。」とするのはどうなのかなと思います。「現象」という言葉を広く解釈すれば、現象と捉えてもよいかもしれません。が、「錯誤する現象」という捉え方は、「貨幣などそれ自体が利潤を生み出す」(この例に疑問がありますがそれは置いて)と見る間違いが有って、本当はこうだというものが有る。間違った捉え方と正しい捉え方という二つに分け、間違い方のタイプの一つが「物象化」である、そう解釈できるような記述になっているのではないかと思います。

 二つ目のパラグラフで、資本論云々は、沢山おられる専門家の人たちの中には異論を唱える方もおられるかもしれません。性質云々については先に指摘した通りです。

 三つ目のパラグラフで、例を挙げられています。最初のパラグラフで定義的に記述するべきところを例で示し、それとダブるような例を持ってくることには疑問を感じますが、貨幣の価値という例をあげるのは適当だと思います。ただ、「最初から貨幣に価値があるかのように」という表現の中に、間違った把握と正しい把握という二元的捉え方が有るように思います。「最初から」という言葉が時間的か、論理的な前というのか、人の感じ方の基礎というのか、微妙に異なりますが、間違い・正しいの二元的に言えば、最初から貨幣に価値があると考える人は居ない。貨幣自体に価値があるかのように感じる人は多数居ます。しかし貨幣自体に価値があると考えるのは間違いであると誰もが知っています。原文の著者の表現では、貨幣の価値の例はいい例とは言えないように思います。それは結局、マルクスが「物象化」と呼ぶ時の捉え方を念頭に置いていないからではないかと考えます。

 貨幣の価値云々を「物象化」の例とする時、次のような説明文でどうでしょう。  空っぽであると思っていた財布に1万円札が残っていたら、端的に1万円得したとニコッとします。このときの気持ちを、後付けの説明はいろいろできるでしょうが、説明以前の段階として、当事者は1万円札に1万円の価値があると見た、と表現してもよいでしょう。そして価値のあることは商品購入の場面で日々「実証」されていることなのですから、間違いではないのです。しかし、貨幣自体に価値があるわけではないのは、ある機縁によって当事者自身においても反省的に捉えられる。機縁としては、小学校の授業であればロビンソンクルーソーが持ち出されるかもしれません。社会の存在が前提であると理解され直すことになるわけです。

 図式的に言い直すと、当事者にとっては、しかるべき理由があって物の性質と見えるが、何らかの機縁によって当事者または他者が反省的に捉え直すと、諸関係を物の性質と錯認したのであったと捉え返される。この反省的な立場からすると、先の把握は物象化的錯認であった、となる。  貨幣の価値云々の例は、誰にでも問題点が分かるという点では良い例ですが、これだけにとどめると意味が狭いものになりそうです。続けて「貨幣」その物に触れるべきではないでしょうか。「貨幣」なるものが存在するなどという主張は唯物論者のマルクスが言うはずがないということで、頭から貨幣なる存在はないとされます。それはそれで構いませんが、反省的な場面であっても、我々の社会では「貨幣」なるものが存在するかのごとく扱われていませんか。貨幣の価値云々というときにすでに、貨幣の存在を前提としている! それも物象化的錯認であると呼ぶものだと思います。


 さて、忠太さんからご指摘のあった、「見える」訳でもなくて、という点については、「見える」ということの意味は上記の文でご理解願えたかと思います。「あたかも物体のように自律的に運動し、人間を支配している」事態を物象化と呼ぶという見方からしますと、原文の「錯誤」も私の「錯認」も同じことと言われそうです。私としては、この「物象化」という項目は、物象化論を論じ合うところではないと考えます。Wikipediaは、中立的な見解を書くようにというのがポリシーのようですが、すべての項目が中立的に書けるのか疑問を持っています。この項目も完全に中立的に記述するなどというのは無理筋と思います。その意味で忠太さんの書き込みに異議を言っているのではないのですが、「物象化」の概念としては、言い過ぎではないかと思います。また、思い込み云々は、繰り返し述べましたように、物象化して把握するにはそれなりの理由があるのです。思い込みを是正しても、物象化して映現すると解します。

 項目の説明としては、人と人の関係が物と物の関係として映現する、という意味をどこかに挟んで置くべきでしょう。あるいは、マルクスの文で適当なものを引いてきて客観性を持たせるなどを、専門の方が為れるとよいのではないかと思います。この項目がより役立つ内容になればと思っています。ーー石井彰文--58.81.39.168 2006年7月7日 (金) 05:15 (UTC)[返信]

>物象化論を論じ合うところではない
少々ネットを検索しましたが、様々な解釈が飛び交っているようなので、確かに客観的に記述するのは中々難しそうですね。はるか昔に『資本論』の初めの方を読んだだけで、広松説も読んでおらず、加筆する力量はないのですが、百科事典的には、『経哲草稿』の疎外論や、『資本論』のフェティシズム論との関連、ルカーチ説、広松説などに触れる必要があると思います。 --忠太 2006年7月8日 (土) 15:53 (UTC)[返信]

 本文が、匿名者によって根本的に書き換えられてしまいました。書き換え自体を反対するものではありませんが、その内容は、対峙すると党派闘争でも挑まれそうなものです。その書き換えの過程は、このWikipediaで推奨されている手順を踏むことなく、行われました。場合によっては単なる党派抗争の場として、削除するべき項目になるかもしれない。そう言ったレベルまで含めて考えて、この匿名者に挑んで書き換える予定です。  2006.12.25付け無名氏(122.19.52.223)の記述は、本文を部分的に書き換えて、より良い内容とするというものではないと考えます。ここに書かれている全文に疑問を持つといってよいでしょう。書き換えは全面的改定とするべきと考えます。書き換えに先立って、この文の問題点を指摘しておきます。

 まず、概念を記述する文としての誤り。ついで特定の解釈を主張していること。 「物象化とは、...出現のこと。そこでは人や労働が物象化する。」いきなり意味不明です。物象化が「..が出現すること」であるなら、人や労働が「物象化する」とはどういう意味になるのでしょうか。後の文で、「ここでSacheとかDingとかは、..硬化した、人、労働」とあるので、物体のように硬くなることという意味でも使っているのかと推測はされます。また「物に即すはずの唯物論の観点の語法」と言う表現からも、「物象化」と言う言葉を「物に関する・になる」という意味で使っているようにも推測されます。即ちこの無名氏は、説明されるべき概念を、既知のものとして使用することによって説明をしようとする過ちに陥っている、と解します。  したがって無名氏の文を内容に則して批判することは、困難です。他の文章も日本語として意味不明なものがあります。誤った文章はいかようにも解釈できる訳ですから、批判しても仕方有りません。一部の断片について、不適当であることのみ指摘しておきます。「ここでSacheとかDingとかは、..硬化した」「物に即すはずの唯物論」と言った断片に現れる、彼の「物」観は、「物象化」を説明するときの注意するべき点をあきらかにしています。硬いものとか硬直したものとかを印象づける説明はよくないということです。普通に考えても物質がすべて硬いなどというのはばかげていますが。  「『資本論』における疎外告発」云々ですが、「物象化」を疎外云々として解釈する一派がいることは事実なので、歴史的なものとして説明に加えるのはよいでしょう。しかし「疎外論」として解釈するべきか否かは、読者の判断するべきことで、辞書で主張することでは有りません。  「資本論」において具体的にどういう文脈で使われているといった専門的な指摘をされる方がおられるなら、その方にお任せして介入は手控えますが、そうでないなら、このノートの前の方で記述したような方向で、書き換えします。石井彰文 2007年1月14日 (日) 06:06 (UTC)[返信]

全面的に書き直してみました。修正前に書かれていた内容はほとんどカバーしたつもりです。御批判、再修正などをお願いします。--Kazhik 2007年9月17日 (月) 05:21 (UTC)[返信]

Kazhikさんの今回の書き換えによって、本格的な内容を持ったものになったと思われます。出典を明記した引用といい、丁寧な記述で、ほとんど素人に口出す余地は無くなったかに思います。——細かな事を言い出すようで恐縮ですが、素人なりに、いくつか疑問を持ちました。全体として経済畑の見解の感を持ちます。宇野弘蔵を最後に持ってきて、「物象化」概念は経済学からは消去可能なものであるという印象を与えます。そういう見解の可否はさて措き、「人と人との関係が物と物との関係として現れること」の一点に絞られているようですが、その限定は如何なものでしょうか。この概念の他の側面ももう少し展開してあるべきではないでしょうか。そのためにはまず、「物象化論」が商品物神を解明するための枠組みである、あるいは、それと関連しますが、商品経済に於ける固有の現象であるとマルクスが限定しているとする認定を検討願いたいと思います。『資本論』に於ける物象化論がそういう物であったという論は、あり得るでしょうが、マルクスが経済以外の分野で物象化という考え方をした事がないという認定は、たやすくできる事なのでしょうか。また、「商品物神を解明するための」という認定は、「物象化の結果として生じる思い込みを」物神崇拝とする見解と結びついていると思われます。そうではない解釈もあり得るのではないか。Fetischismusは「物神崇拝」ではないのではありませんか。ある物が見た目以上の特別な存在である、とする事ではないでしょうか。単なる「思い込み」であると言うのは、第三者から見てであって、当人にとっては、例えば触ると祟りがある。要するに、物象化と呪物性は相即していると言う解釈です。人々に商品自体が価値を持つと見えるという事があるからこそ、労働関係が物象的関係として現象すると言える、という考え方です。これと関連しますが、「形成」においても、「歴史観の提示」のための枠組みが「物象化論」であるかの記述があります。そこには同時に「疎外論」との類似の指摘がありますが、そこにも問題があるのではないでしょうか。廣松の立論解釈とも関わる重要な箇所です。周知のように、「人間にとって疎遠な」云々は、当時のヘーゲル左派が問題にしていて、マルクス・エンゲルスも同様に課題としていたというものです。そこで肝心な事は、その「人間に外的な力」をどういう論理で把握するかという点でしょう。ヘーゲル左派は「自己疎外論」をもって理解し、ヘーゲル的外化の論理で解こうとしていたし、『経哲手稿』のマルクスもそうであった訳です。ところが『ド・イデ』段階になると、引用されているエンゲルスの文が示すように、「外化」なるもので「説く」=「解く」のではなく、自然性的分業がもたらす、故にその止揚を目指す、という「唯物史観」&「革命運動」を打ち出した、その点にこそ初期マルクスと、後期マルクスの分かれ目があるのではないでしょうか。また、ヘーゲル疎外論からの脱却が分業論によると廣松が言っている、とも読めますが、全く別の文脈もあっての事ではないでしょうか。経済的問題を分業論で考えていたエンゲルスと、ヘーゲル左派的哲学志向であったがヘーゲルを克服しようとするマルクスが、お互いに認めあう、解釈の難しい時期の事です。これも解釈の問題ですから、いろいろの考え方がある訳で、そうしろと言えるものでありません。同様に、廣松の解釈として、「関係主義」を説くために物象化を歴史貫通的としたと述べられています。廣松本人としてはそうではなく、マルクスの延長にあるのであって、「マルクスが商品経済固有の現象とした」という見解には反対するでしょう。その意味では係争的見解を、此処で打ち出すのは如何なものでしょう。もう一点、「労働と労働の関係が商品と商品の関係として現われる」ことを転倒とありますが、それ自体は転倒と言えるのですか。言い得ないという意味ではなく、そこは経済学が客観的な学として成立する拠点ではないのですか。少なくとも、そのことを分析的な知見と見る立場からすれば、転倒ではないと見るでしょう。繰り返しになりますが、Fetischismusを「物神崇拝」とするのは文脈によっては問題ではないかと思います。商品経済という限定で、生産物自体が商品価値を持つと見える事は、人々に対して汎通的であり、人々の行動を規制する、そのことは先の分析的見解から見ると、転倒している。諸関係の結節の物象化という見地は、物象化的現象自体を転倒というのではなく、その「物」が逆に諸関係を規定する「物」と見るから錯認であると言う、のではないかと思うのですが。経済学に関わる事にまで口出ししてしまいましたが、要するに、『資本論』に記述されている事だけが「物象化論」であるとは言えない、と考えます。従って、この事典における記述は、経済学的な側面だけという一面的なものにしないように、バランスが要るのではと思います。関係主義的立場から「実体」の成立を説明する見地=物象化論と、それをマルクスの継承に見るという事に否定的な見解でまとめるのは、如何なものでしょうか。余計な口出しになったかもと思いつつ。石井彰文 2007年10月26日 (金) 12:56 (UTC)[返信]

(1) 廣松さんの物象化論はマルクスとは異なる、というのは廣松さん自身が認めていることですから「係争的見解」とは言えないと思います。『物象化論の構図』にこう書かれています。「物象化という概念を、人と人との関係の物象化に局定することなく、事物どうしの反照的規定関係の物性化や実体化にまで拡充しては如何? 筆者自身としては敢てこの拡充を企てる者であり、そのことはマルクス・エンゲルスの発想法や存在観に抵触しないと考える。だが、しかし、『物象化』という詞の用法ということで言えば、マルクス・エンゲルスは外延をそこまでは拡張していないのが文典上の事実である」(『廣松渉著作集』第十三巻、102ページ)。必要ならこの点を追記することにします。(2) マルクスの物象化論を考える場合、『資本論』において物神性論との関連で出てくる物象化論を最終的な到達点とし、それ以前の著作を物象化論の形成史と見なす観点と、物象化論は『ドイツ・イデオロギー』で打ち出されて『資本論』に受け継がれた、と見る観点がありうると思います。私の解釈は前者で、廣松さんの解釈は後者です。『ドイツ・イデオロギー』はマルクスとエンゲルスが自ら発表した著作ではないし、そこで物象化論が基軸になっているとも言えません。しかし『資本論』はマルクス自身が発表した著作であり、物象化論は「商品の物神的性格とその秘密」という独立した節で展開されていて、その論理は商品論の全体を貫いています。(3) Fetischismusは「物神崇拝」ではない、という御指摘は今ひとつ理解できないのですが、物象化そのものは転倒ではない、ということであれば確かにその通りです。「転倒」ではなく「商品経済に固有なメカニズム」とでも書いておくべきでした。(4) 最後に宇野の物神性論批判を書いたので、それでまとめたかのような印象になったと思います。歴史的な順序はマルクス・ルカーチ・宇野・廣松ですが、ルカーチと廣松は並べた方がよいと思って宇野を最後にしました。この構成に違和感があるなら、マルクス・宇野・ルカーチ・廣松の順序に変えることにします。--Kazhik 2007年10月27日 (土) 03:07 (UTC)[返信]

 『物象化論の構図』からの引用ですが、「廣松渉の物象化論」に挿入することに賛成です。また、順序については単なる時間的順序というのが無難ではないでしょうか。「転倒」を「商品経済に固有なメカニズム」とするのは、逆らうようですが反対です。単に「そのことをマルクスは物象化と呼んだ。」で良いのではないでしょうか、その後に、的確な引用があるのですから。「物神崇拝」の件は、私自身が論じ切る自信のないことを書いてしまいました。置いておきます。——以下、関心のない方にはつまらない細かな言い争いと映ると思いますので、目をつむっていただいて。——  私の要領を得ない記述で誤解を与えたかと思いますが、物象化論の広袤の相違についてを「係争点」であるとしたのではありません。関連はしますが遠いところです。「マルクスの物象化論」を『資本論』から抽象したとして、それを『資本論』の論域に限るという限定はできないのでは有りませんか。マルクス本人が概念化し論域を指定しているならともかく、そうでないなら、商品論で展開されているという理由で、その論理は商品論に限るあるいは「固有の」とは言えないのではないでしょうか。——その抽象化のレベルという問題が搦むでしょうが。——全くの素人ですので、『資本論』において物象化論の論理構成が、純粋「商品経済的対象」を離れて、社会的関係を含む問題に立ち入っているかどうか、『資本論』全体を貫くものであるかどうかとか、そういったことを問題としているのでは有りません。「商品経済における」という限定が、「『資本論』の物象化」「物象化論の形成」「廣松渉の物象化論」の3ヶ所に有ります。最初のものは、『資本論』の対象領域がそれなのですから措いて、「形成」における『ド・イデ』に関して、二つの引用のあと、『資本論』との相違を示されていますが、「物象化は商品経済に固有な現象としてではなく」云々、また、「廣松渉の物象化論」に於ても「物象化は商品経済に固有の現象ではなく」云々と有ります。この二つから、「物象化は商品経済に固有な現象」という命題をマルクスの考えであるとKazhikさんがされていると受け取りました。前者に対しては、エンゲルスがその段階まで「到達していない」という意味であり、後者については、廣松がマルクスの考えと「異なって」いる事を示す意味であると解しました。というのも、当時のエンゲルスに対して、後年のマルクスの把握した商品経済における固有の法則が分かっていないと言う筈もないし、また、廣松に対して、「大阪経済固有の現象としてでなく」などという的外れの限定詞を置く筈もないでしょう。そう解釈して、その上で、その命題をマルクスのものであるとすることは「係争的見解」であるとしました。そしてそれが、「マルクス・エンゲルスの発想法や存在観に抵触しないと考える」廣松に反対して、抵触しているという記述になっているように見ました。『資本論』に記述されている「物象化論」と、そこから抽象された論理とは区別されるべきでしょう。ただ後者は、論者によって異なりそうですし、的確に述べるのは難しいでしょう。Kazhikさんが引用された『物象化論の構図』の文章が、その尻尾を微かに見せているので、その意味でも載せるのに賛成です。——以上、苦情の方が多く、せっかくの書き込みに水を差すようで、恐縮です。--石井彰文 2007年11月6日 (火) 12:13 (UTC)[返信]

(1) マルクスの物象化論は『資本論』の物象化論に限らない、と主張したい場合、結局のところ『ドイツ・イデオロギー』の物象化論を『資本論』の物象化論とは異なる固有の意義を持つ理論と見なさなければならないと思います。しかし、私の理解は本文で書いた通りで、『ド・イデ』の物象化論は『経済学・哲学草稿』の疎外論と『資本論』の物象化論の中間点、というものです。そこに固有の意義を認めることはできません。経済学的には中間点かもしれないが哲学的には固有の意義がある、と主張するなら、まずその意義を説明していただけますか。関係主義的な世界観を打ち出してブルジョア・イデオロギーの地平を超えた、と言うとマルクス・エンゲルスではなくて廣松渉の物象化論になってしまいますので、廣松さんからも離れて『ド・イデ』の物象化論の独自性を言う必要があります。(2) 順序はマルクス・ルカーチ・宇野・廣松にする方向で考え直したいと思います。そうすると『資本論の哲学』をめぐる廣松派と宇野派の論争にも言及する必要がありますので、ちょっと時間がかかりそうです。--Kazhik 2007年11月7日 (水) 13:15 (UTC)[返信]

話が熟さないというか、噛み合ないので「廣松渉の物象化論」を書き換えました。Kazhikさんの最後の文を削除し、追加した物です。Kazhikさんの本文と不協和であるし、廣松に精通されている方の眉をしかめさせる物ですが、項目「廣松渉」からすれば、次々善の策として寛恕願えるかもと考えます。--石井彰文 2007年11月14日 (水) 14:22 (UTC)[返信]

不協和を消す方向で編集しました。マルクス・エンゲルスの物象化論、廣松さんが解釈するマルクス・エンゲルスの物象化論、廣松さん自身の物象化論はそれぞれ別物です。三番目を解説するのは廣松哲学をまるごと解説するのと同じなので廣松渉でやったほうがいいと思います。--Kazhik 2007年11月18日 (日) 01:14 (UTC)[返信]

リダイレクトについて[編集]

「物心崇拝」はマルクスが述べたものより以前からある概念なので、この項目にリダイレクトされてしまうのはいかがなものでしょうか?独立した記事が無いのであれば、「呪物崇拝」や「フェティシズム」へのリダイレクトも選択肢の一つだろうと思います。--Bermithruxe 2012年1月15日 (日) 19:22 (UTC)[返信]