ノート:浦上四番崩れ

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>彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなどその過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上であった。

江戸末期から明治の日本人が(サディストや、気のふれた個人なら別ですが)、お役目でこんな「拷問」を行うとは思えません。「死」を与えることはあっても、「苦痛」を与えるような発想は日本人にはなかなかないのではないか。 出典を示してほしいと思います。 キリスト教とくにカトリックでは、殉教者は祝福されます。それも残酷な死に方であればあるほど祝福されます。主イエスをはじめ、多くの聖人が磔刑、火炙り、車裂き、大釘打ち付けなど、凄惨な殺され方をしたと伝えられています。 これらの拷問方法はもはや、日本人の想像の外ではないでしょうか。 それでも、本項目の殉教者たちが残虐な拷問を受けて殺されたということにしたのは、カトリック教徒による祝福の一形態であって、事実とは違うのではないのでしょうか。

<拷問による死は想像を絶する恐怖ではなく...それは救済への道であり、神の計画の一環なのだ、イエスと同じくキリスト教の聖者たちは創意工夫に富んださまざまな方法で拷問死を遂げ、そのことによって神に並ぶ地位を得た>スティーブン・ピンカー『暴力の人類史(上)』p49 <キリスト教世界における組織的な拷問は...道徳的な裏付けがあった。イエス・キリストを救世主として受け入れないと地獄に落ちると心から信じていれば、その真理を認めるまである人間を拷問するのは、相手の人生に最大の恩恵をもたらすことになる。数時間の苦痛に耐えれば、その後は永遠に救われるのだ> スティーブン・ピンカー『暴力の人類史(上)』p54

ところで、本項目には以下の記述もある。

>その中でも苛烈を極めたのが、22歳の女性・岩永ツルへの拷問であった。彼女は腰巻き1枚の裸にされ、冬の寒い風の吹く中、震えながら石の上に正座させられた。夜になると裸のまま牢に帰され、昼にはまた石の上に正座させられた。1週間目には身体が埋もれるほどの大雪となったが雪の中に晒され続け、18日目には雪の中に倒れたが、それでも棄教しなかったため、役人は改宗を諦めた。彼女は1873年(明治6年)に浦上に帰った後、1925年(大正14年)12月に浦上の十字会で亡くなるまで、生涯を伝道に捧げた。

苛烈を極めて「この程度」だとすると、冒頭に引用した水責め、雪責め、火責め、気が拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなどは、苛烈を極めるのさらにその上をいっているので、項目内で矛盾しているように思える。

三省堂大辞林によると、拷問とは「自白を強要するため,肉体的苦痛を与えること」とあり、禁止されたカトリック信者に拷問をもって棄教を迫ったり、それが無理な場合、死罪としただろうことは間違いないと思われる。 ただし、その「拷問をもって」がどの程度の苛烈さ、残虐さであったのかは、実証されるべきだ。とにかく、苛烈残虐であればあるほど殉教者の利益になるという「ねじれた」側面があり、しかし、それでは、非カトリックの日本人の名誉の問題になってしまう。

どなたか、実証的な研究者の書き換えを求めます。

なお、こうした構図は、第二次大戦(大東亜戦争)における英米蘭将兵捕虜に対する扱い、韓国におけるいわゆる従軍慰安婦問題などで、まったく同じようになぞらえられています。キリストの教えというのが、いかに***しているかため息が出ます。