ノート:永山亥軒

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本文中『文久年間藩主名代前田慶寧に従い京都に上り、公家等を相手に講義を行う傍ら、高松保実に和歌を学び[12]、杏凡山を通じて蒋子賓に詩文の添削を受け[13]、また梁川星巌と交流した[14]。』とあります。しかしながら、梁川星巌は安政5年に亡くなっており文久年間には生存していません。ところが、先の文章は文久年間に梁川星巌と交流していたと解釈されてしまいます。--240D:1:3004:6600:4D9B:6403:A3C6:18B3 2017年1月9日 (月) 09:11 (UTC)[返信]

ご指摘ありがとうございます。和田(1921)では「文久中~亥軒曁び鶴見謙堂に内命を下し先づ適きて京師の情勢を視せしむ~」の次に「亥軒京師に在りて諸藩の士と往来し~又梁川星巌に見え所薀を叩き時務を籌る」の記事が来ており、著者もそのような認識だったと思われます。文久より前に会ったことがあったか不明なので、記述は外します。 --Aiaiaiaiaia会話2017年1月9日 (月) 22:47 (UTC)[返信]