ノート:桂岩院

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一部、客観的記述が求められる百科事典には不適切な表現があったため修正します。

過去の履歴を見ると、史料的裏づけのないまま、景勝と菊姫の関係を貶めたいがために編集を繰り返しているとしか思われない記述が目立つように思います。四辻氏が景勝の「最愛の女」であったなどと、誰の、何を根拠にした説なのでしょうか? まして、菊姫が上杉家中にあって、「景勝を脅かす存在」であった、などという記述にいたっては、まったく個人的なアンチ感情で書きなぐった内容としか思われません。非常に問題があると思います。 家臣たちの反応やそれに関連するものは俗説のひとつに過ぎず、まったく信憑性に乏しいものです。そうでないのであれば、具体的な史料を明示したうえで、それに対する見解として記述するべきです。 ここは個人サイトではありません。--202.239.241.30 2008年2月13日 (水) 13:01 (UTC)[返信]


「四辻氏は懐妊後米沢入りした」との記述がありましたが、景勝は慶長6年(1601)10月15日、米沢初入部のため伏見を出立した後、慶長8年(1603)11月17日伏見入りをするまで、上洛した記録はありません。定勝(慶長9年5月5日誕生)の懐妊は米沢でのことと思われるため訂正しました。 景勝は四辻氏所生の定勝を溺愛したと伝えられ、実際父親としての愛情あふれる定勝宛の手紙が何通か現存していますが、四辻氏と景勝が実際どのような関係であったのか、実証できる一次史料は存在しないと思います。 また景勝は米沢転封後も何度か上洛していますが、記録を見る限り慶長8年の上洛は、翌正月大阪城に登城した他は特に公的活動を行った記録がないにもかかわらず、異例の約9か月に及ぶ長期滞在(当時四辻氏が待望の第一子を懐妊中であったにもかかわらず)となっており、菊姫の病気、死亡が関係していた可能性も否定できないのではないかと思います。景勝と同じく正室との間に子が生まれなかった毛利輝元も、43才にして初めての子を側室との間に得ています。当時の習慣からしても側室を置くことはごく普通のことであり、「景勝の裏切り」というのはありえないのではないでしょうか。 四辻氏に対する家臣たちの反応の表現も極端すぎるのではと思い、中立的な表現にかえさせていただきました。実際には、そういった家臣の悪感情を証明する信憑性のある史料は見当たらず、後に、当時嫡子の誕生が切望されていた綱勝(景勝の孫)の後妻が四辻家から迎えられた事実をみても、むしろ四辻氏が定勝を生んだ事は、上杉家では慶事ととらえられていた可能性もあると思います。--Thomo 2008年4月1日 (火) 18:31 (UTC)[返信]