ノート:柳生心眼流

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9月18日付けの編集で植芝盛平が坪井政之輔名義で発行された資料が「免許」から「初段免状」を得たと変わっていますが、植芝盛平は「免状」ではなく「巻物」の伝授を受けています。内容については深く知り得ませんが、東京伝の先代である武藤正雄師範が生前に植芝家の柳生心眼流資料を実際に見る事の許可を得て研究されていますし、雑誌の「秘伝」にも簡単な写真は載っていたように記憶しているのですが。 何らかの意図があっての記述内容の変更なのでしょうか?

2007.9.24 loto以上のコメントは、219.188.178.200会話/投稿記録/Whois)さんが[2007年9月23日 (日) 15:33 (UTC)]に投稿したものです(三畔による付記)。[返信]

「秘伝」に掲載されていたのは、まさに初段免状です。「巻物」イコール「免許」なわけではありません。9月18日の修正をした人間ではありませんが、よく知ってるなと思っていたところです。——以上の署名の無いコメントは、219.41.7.149ノート/Whois)さんが 2007年9月26日 (水) 20:08 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 10:34 (UTC)による付記)。[返信]

「秘伝」に「免状」が掲載されていたとの事ですが、いつの号か判りますか?(最近の秘伝だと持ってないかもしれないので) 私が植芝盛平関連の柳生心眼流資料として写真で見た写真は「巻物」形式だったのですが。 免状と巻物では明確に形式が違うので、どちらかが勘違いしているのかな?と感じています。 それとも植芝盛平は免状と巻物の両方を授与されていたのか。

2007.9.27 loto以上のコメントは、219.188.178.200会話/投稿記録/Whois)さんが[2007年9月27日 (木) 09:16 (UTC)]に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 10:34 (UTC)による付記)。[返信]

 横から失礼しますが、植芝盛平は「初段免状」という題の巻物形式の伝書を貰った、と言う事です。古流では免状と言っても巻物形式の場合が多いんじゃないですか?たとえばこのページ[[1]]に『免状の事』という名の巻物が紹介されています。 で、秘伝ですが、手元に資料が無く不確かな記憶ですが、たしか版形が変わってすぐ位の関西伝の心眼流特集の号ではありませんでしたか?--Hakusai 2007年9月27日 (木) 09:35 (UTC)[返信]

結局そのままぽいですね。他にも割りと大きな間違いもあったりしますが大体合ってるしこんなものなんでしょう。——以上の署名の無いコメントは、219.41.7.149ノート/Whois)さんが 2007年10月8日 (月) 04:21 (UTC) に投稿したものです(三畔による付記)。[返信]

植芝翁の「初段免状」の呼称については私の不勉強のため存じません。該当の雑誌資料も現状手元に出せない状態なので。ただ「許し」の形式や書式については、流派独自の呼称は当然ありますが、賞状、切紙、折紙、巻物(目録)、冊子などの形式が明確にある事はご存知の事と思います。 近年は資料が表に出て来るようになりましたが、一昔前までは植芝盛平の伝授を受けた物や巻物自体の存在は口頭にに登っても、内容は不明で合気会側からは単に「後藤派柳生流の免許皆伝」と言う発表がされていたので、私の知識が古いのかもしれません。あとは免状=賞状と言う勘違いをしていたかもしれません。賞状の皆伝もあれば巻物の目録もあるでしょうし、免状が免許と言う解釈になったのだろうか?と感じています。中途半端な返信にて失礼。

2007.10.15(月) loto以上のコメントは、219.188.178.200会話/投稿記録/Whois)さんが[2007年10月14日 (日) 18:22 (UTC)]に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 10:34 (UTC)による付記)。[返信]

124.44.53.237さんが、伊藤伝治の居合を削除されているようですが、根拠をおしえてください。他にも力信流や渋川一流、天道流も削除や変更をしているようですが、どこも根拠を書かれていないようですが、書かれた方がよいですよ。あと219.41.7.149さんがノートに書かれた

  • 心眼流居合で「江戸伝の流れを汲んでる」とか書いた人。汲んでませんから。先々代の山本先生が継いだとき既に武藤先生は星野門下にいたわけで、その武藤先生が伊藤伝治を見たことが無いと言っているのになんで江戸伝の流れを汲めるといえるんだ?そもそも伊藤伝治が創作だって認めてることなのに。というか、本当にいいかげんにして欲しいのだけど?不都合だからといって事実の記述を削除するのがいかに身勝手なのかよく考えましょう。——以上の署名の無いコメントは、219.41.7.149ノート/Whois)さんが 2007年10月18日 (木) 14:30 (UTC)、2007年10月19日 (金) 15:11 (UTC)、2007年10月19日 (金) 15:21 (UTC)、2007年10月20日 (土) 17:48 (UTC)、2007年10月20日 (土) 17:53 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 10:34 (UTC)による付記)。[返信]

という記事が221.171.196.8さんによって削除されています。219.41.7.149と221.171.196.8が同一人物なら問題ないと思いますが、別人でしょうか? --Hakusai 2007年12月28日 (金) 00:49 (UTC)[返信]

219.41.7.149と221.171.196.8は同一人物です。正直、子供じみた書込みなんでもういいかと思っていたのですが。 124.44.53.237があの内容を削除したい理由が私も知りたいですね。 少なくとも記事編集のやり方に納得がいかないかな。このノート部分は無視されてるのでしょうか?——以上の署名の無いコメントは、221.171.196.8ノート/Whois)さんが 2007年12月28日 (金) 11:06 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 10:34 (UTC)による付記)。[返信]

また124.44.53.237が居合の内容を削除していたようですね。 ここを見ずに自分の書きたいようにしかしないのでしょう。 恐らくまた、時間を空けて同じことをすると思いますので、気がついた方が戻すしかないでしょうか。124.44.53.237がコミュニケーションや議論するつもりは全くないようですし。——以上の署名の無いコメントは、202.227.43.6ノート/Whois)さんが 2008年1月28日 (月) 02:03 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 10:34 (UTC)による付記)。[返信]

それでは逆に伊藤伝治の柳生心眼流が創作だというあなたの根拠を教えてください。武藤先生の話などというのは全く根拠になりませんよ。確証文献を示してください。武藤先生は居合を修めなかったので(先代が居合と他の武術は分けて伝えた)面識がないのも当然ではないですか。--124.44.53.237 2008年6月7日 (土) 09:15 (UTC)[返信]

  • 武藤先生の先代と言うと、山本和三郎先生の事でしょうか?下で書かれているとおり、山本師範の先代星野天知が存命の時に武藤先生は山本門下に入門しているわけで、その武藤師範は山本師範が亡くなるより以前から流儀の師範として活躍しています。武藤師範は古武道の研究家としても有名です。先代からの信頼も厚かったのでしょう。それほどの方の発言です。その辺りのことについては?居合とそれ以外を分けて教えていたと言う新しい主張するのでしたら、あなたも文献を示す必要があると思いますが?伊藤師範が山本和三郎直筆の伝書や手紙等証拠でも持っていればそれで解決するんじゃないですかね?--Hakusai 2008年6月23日 (月) 06:18 (UTC)[返信]

先代とは星野天地。星野は柔剣棒を山本に、居合は石川八代次に伝えた。伊藤氏は石川の弟子。文献を示さなくても武藤氏が居合を相伝していないのは事実です。師匠の山本氏が伝えていないのですから。それから伊藤氏は石川氏からいただいたを伝書持っていました。関西にかつてあった全日本古武道綜合連盟で確認がされています。今、それがどうなっているかは知りません。新しい主張ではなく、それが事実なだけです。事実と異なる記述は伊藤氏を冒涜することになるので、その名誉のために書いていることです。——以上の署名の無いコメントは、124.44.53.237ノート/Whois)さんが 2008年6月24日 (火) 12:01 (UTC)、2008年6月24日 (火) 13:07 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 10:34 (UTC)による付記)。[返信]

免許貰うくらいに同系を深く修行する間柄が無面識って普通に武道を嗜んでる人間の感覚ではありえないと思いますが。 まともに考えてですよ、本当に同根の兄弟弟子系なら、今の両者の間で時候の挨拶も存在しないのはなぜか常識で考えてもおかしいでしょう。 山本先生発行の伝書には居合も箇条されていますね。——以上の署名の無いコメントは、125.196.212.232ノート/Whois)さんが 2008年6月25日 (水) 13:38 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 10:34 (UTC)による付記)。[返信]

  • 全然おかしくないですよ。そんなの武術の世界ではよくあることでしょう。山本氏や武藤氏が石川の弟子を知らないのは全く普通の話。伝書は書式を崩さないために、学んでいない箇条も省略せずにそのまま書くのもよくあること。それではなぜ武藤先生は居合ができなかったのでしょう。初見さんと佐藤金兵衛さんはともに高松さんの弟子。時候の挨拶なんて一つもしていない。こんな例はいくらだってある。もう少し武術界の実態を知ってください。--124.44.53.237 2008年6月28日 (土) 08:20 (UTC)[返信]

武藤先生が居合が出来なかったとは聞いた事もありませんが?何故そう決め付けるんです? まあ技が八本しかなければそうそう演武の構成に入ることも無かったでしょうが。 それよりあなたは、先に山本先生の系譜と書いておきながらも今はもう山本先生は居合を知らなかったことにしてますが? しかもニセモノだという証拠を出せとか書いてますね。 ニセモノがそう言い出すのは、自分で本物という確たる証拠を表せないので開き直って言う科白だと思いますがね。 佐藤先生は喧嘩早かったし、人の好き嫌いも結構あったそうなのでそういうこともあるでしょう。 というか書いてある事に矛盾が出始めているのにまだ言い募ろうとするのは、そろそろ釣りとでも言うつもりなんですか?——以上の署名の無いコメントは、122.134.20.173ノート/Whois)さんが 2008年6月28日 (土) 10:42 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 10:34 (UTC)による付記)。[返信]

勝手にしてください。あなたのような方がいるから真実が表に出てこないのです。私はここから去ります。でも武藤氏は居合できませんでしたよ。まあ、あなたがどう思おうと勝手ですが。——以上の署名の無いコメントは、124.44.53.237ノート/Whois)さんが 2008年6月29日 (日) 12:49 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 10:34 (UTC)による付記)。[返信]

思ってるわけではなくて、見た事ありますが。 武藤先生ではありませんが伝わってるものを。 正直な話、武藤先生は自流他流含めて古武道の資料保存に尽力されていたのは有名な話で星野天知以前からの伝書も当然残ってるわけです。居合の技の系譜などもそれらを見ればたぶん明らかですよ? まともな資料が存在しない状態で真実云々をいうのはいかがなものでしょうか? あと、武藤先生が新陰流を取り入れたのと居合の技の伝承の話はまったく別な話でしょうね。 そういうことが言いたいのならね。——以上の署名の無いコメントは、122.134.20.173ノート/Whois)さんが 2008年6月29日 (日) 13:13 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 10:34 (UTC)による付記)。[返信]

柳生心眼流居合に関しては、伊藤師範が上京した際に同じ大嶋一学系の江戸伝の武藤師範と関西伝の島津師範が、「これはどう言う事か?」と事の真偽を伊藤師範に詰問しています。それに対して伊藤師範は両師範に対して謝罪をしたと私は聞いております。ちなみに伊藤師範は「何故柳生心眼流の流派名を名乗ったのか?」との問いに対して「流派の響きとして格好が良かったから」と答えられたそうで、以後は柳生心眼流の流名は名乗らないと約束されたとの事です。私が聞いている話では「今の伊藤師範のお弟子さん達はそう言った経緯を知らないのだろう」との事ですが、事の真偽を確かめる術は今となっては闇の中でしょう。また武藤師範が居合が出来なかったと言う事は考え難いと思います。理由としては心眼硫か否かは置いて置くとしても、武藤師範は新陰流を習得されており、新陰流には柳生制剛流が併傳されているからです。また後藤派柳生流にしろ東北伝柳生心眼流にしろ、居合専門の流派ではないので、武藤師範の伝承した居合(抜刀術)の本数が8本であっても、他流と比しても決して少ないとは言えないと思います。

--利用者:785 2011年3月2日 (水)以上のコメントは、219.188.176.12会話/投稿記録/Whois)さんが[2011年3月2日 (水) 04:30 (UTC)]に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 10:34 (UTC)による付記)。[返信]

突然失礼致します。確認されていない人物が記載されておりましたので、削除させていただきました。また、新しい情報で確認されましたら、すぐ復活させます。どうぞ宜しくご理解願います。--133.31.213.145 2010年7月27日 (火) 06:34 (UTC)[返信]

あ、ひさしぶり。 ところで「伊達黒臑巾組流忍術」って聞いたことないんですがどなたか詳細ご存知? 佐藤金兵衛先生を抜いて、追加するほどのことなんかなあ?——以上の署名の無いコメントは、122.134.108.52ノート/Whois)さんが 2011年4月5日 (火) 05:53 (UTC) に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 10:34 (UTC)による付記)。[返信]

ああ、編集間違ってますね。佐藤金兵衛さんは残していたつもりだったんですが。忍術はよくわかりませんが、心眼流に関係あると力説している人がいましたよ。これもなんで追加したんだ私?--Hakusai 2011年4月6日 (水) 14:05 (UTC)[返信]

東北伝について、既に失伝または活動していない方について削除し、整理しました。宗家については2人の方が名乗っていますので追加記載し、その他の名称も出来るだけ現状に則した表現にしました。 --やなぎねこ 2011年4月26日 (水) 15:25 (UTC)以上のコメントは、やなぎねこ会話投稿記録)さんが[2011年4月26日 (火) 06:15 (UTC)、2011年4月26日 (火) 06:18 (UTC)、2011年4月26日 (火) 06:21 (UTC)、2011年4月26日 (火) 06:24 (UTC)]に投稿したものです(三畔 2011年4月26日 (火) 10:34 (UTC)による付記)。[返信]

関西伝伝系につきまして、植芝盛平の前が「中井正勝(大阪府)、坪井政之輔」となっておりましたので、順番変更と共にカッコ内へ「堺」と追加させていただきました。植芝の直接の師は堺の中井正勝と伝えられ、植芝家に残る巻物では発行者が坪井政之輔となっています。おそらく、中井は当時指導のみが許された師範であり、免許発行はその師である坪井から受けることになっていたものと推察されます。ちなみに、坪井もまた大阪で指導していたことが故・武藤正雄先生の所蔵資料から判明しております。--思有邪

流儀の歴史につきまして、高橋彦吉に(星清右衛門実弟)の追加、および、東京伝伝系につきまして、大島正照一学とあったのを「大島正照」変更させていただきました。高橋彦吉は星家から高橋家へ養子に入られた方で、実質的には清右衛門同様、星貞吉の甥にあたることは柳生心眼流の歴史において重要と考えます。ちなみに、その技の荒々しさから「殺しの清右衛門」と異名をとった兄に比べ、「師匠にとらば彦吉」とその指導力で慕われたという言い伝えは、楊家太極拳の二代目、楊班候と楊健候兄弟の関係と不思議な共通性があり、興味深いところです。また、東京伝(星野天知伝)においては、星野の著書『柳生心眼流 練武の秘伝も語る』で明記されているように、大島の名は「正照」とだけ伝えられています。もちろん、この人物が関西伝でいう「大島一学」であることはほぼ間違いない事実ですが、伝承上は「大島正照」とされているので、あえて変更させていただきました。これは、ここでは詳述するスペースがありませんが、星勝雄編『古武道柳生心眼流』で提起されている大島一学とその子息・学との関係からも、重要点と思えます(もっとも、星野の口述として、大島が幕末期に「人斬り“いっかく”」と呼ばれていた、との逸話は、星野の師が「大島一学」であったことの傍証とは思えますが)。 --思有邪