ノート:松之山街道

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ルートに関する疑問、上杉軍道に関する疑問[編集]

・上越市から塩沢へ向かうルートとなると、松代や犬伏から薬師峠を通る(現在の国道253号線)という記載は、明らかに矛盾しています。松之山(浦田口)から鹿渡を経て清津峡を通るルート(現在の国道353号線)または松之山から雁が峰峠・津南を経て清津峡を通るルート(現在の国道405号線から国道353号線を通るルート)ということになります。

 松代や犬伏から薬師峠を通るのであれば、その先は八箇峠であり、終点は六日町であり、塩沢ではありません。自治体のホームページをパクるから矛盾が生じます。

 但し、以上の3つのルートとも、松之山街道と呼ぶこともできるでしょう。

・松之山街道が上杉軍道として整備されたという証拠はあるのでしょうか。上越市から関東に越山する場合、柏崎・小千谷を経由したという説もあります。--240B:10:9020:2F00:3150:239F:84EA:EA0D 2023年1月29日 (日) 09:13 (UTC)[返信]

上杉軍道の根拠に乏しい[編集]

元亀2年5月20日付けの上杉謙信から河田重親宛ての書状(松平義行所有、「越佐史料5」、「群馬県史資料編7」で活字化、原本は水戸の彰考館文庫に所蔵)に、所衆を松山、塩澤経由で上野に遣わすことが記載されていますが、この時点で謙信は越中におり、この年越山したのは冬のことです。謙信自らが松山(松之山)を通ったという証拠はまったくありません。

「大和町史」、「越後歴史考―越後の新田系諸族および謙信、戊信戦争など」(渡邉三省)は、上杉軍は柏崎、小千谷経由で越山したという説を採っています。

松之山街道=上杉軍道というのは、十日町市の地域おこしのためのキャッチフレーズに過ぎないのかもしれません。--106.72.144.32 2023年3月25日 (土) 05:08 (UTC)[返信]

宿場について[編集]

おそらく、松代宿、犬伏宿については、「永禄六年北国下り遣足帳」(永禄6年(1563年)に京都の醍醐寺の僧侶が書き残した旅の消費の記録。国立歴史民俗博物館所蔵の「田中穣氏旧蔵典籍古文書」の中の一点)に準拠したのでしょう。しかし、蒲生宿は「永禄六年北国下り遣足帳」に記載されていません。また、「永禄六年北国下り遣足帳」は、松之山街道=上杉軍道という証拠でもありません。1563年時点で僧侶が松代で旅籠に宿泊し、犬伏で「コツカイ」を払ったという記録に過ぎません。--27.83.74.148 2023年7月28日 (金) 06:38 (UTC)[返信]