ノート:東三河司頭

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牛窪記の記述自体が、信用できません!!牧野氏の事跡を過大評価する書物は、史実の流れと合致しません。--221.119.62.126 2007年2月22日 (木) 13:55 (UTC)[返信]

まず最初にお断りしますが、私はこのページの立ち上げ者ではなく、また『牛窪記』の記述を丸ごと信用している訳ではありません。さて、東三河司頭の用語は繰り返しになりますが、『牛窪記』、『宮島記』に使用実例のあるものですので最近の造語ではないです。次に出典とされるこれらの文献は、室町時代・戦国時代などの記事と同時代の成立ではなく、近世初頭であります。

そして、問題の用語の同時代の使用例は、判物・朱印状等で具体的に補任された例を私は知りません。牛窪記の記述では今川氏輝のとき、東三河司頭に定めたとしており、事実であるなら今川氏の私的な職名として命じたことになりますが、疑問点があります。司頭が戦国大名今川氏の定めるものであれば、その分国内で同一の使用例があってよさそうですが、駿河・遠江国内の古文書・文献に私の知るところでは実例を見ませんしその様に解説する参考文献も知りません。

それゆえに、牛久保六騎のページ内でこの用語は牛窪記などのせいぜい「数例の文献に使用例がある」程度に納めるのがベストと思いました(牛久保六騎とはニュアンスが違うので)。私の考えは現在も同じです。当ページについては立ち上げ者の方に見解をお聞き下さい。 それと、牛窪記のような史料への扱いは100%信用も逆に全否定も適当ではないと考えます。故城一片之月 2007年2月23日 (金) 11:42 (UTC)[返信]

宮嶋伝記になってますけど??[編集]

宮島記ではないのでは???

宮島って、牛窪のことらしいけど。

--220.217.212.211 2007年3月9日 (金) 07:20 (UTC)[返信]

典拠、『今橋物語』所収の引用文「宮島記」です。--故城一片之月 2007年3月13日 (火) 14:35 (UTC)

成時は、今橋城(吉田城)築城時に10代将軍・義植より「三河国諸士旗頭」という肩書きを貰っている。[編集]

http://www.kumambo.com/MT_Report/for_maniax/maniax05/maniax05.htm

牧野氏は、1400年頃に足利4代将軍・義持の命で讃岐から呼ばれ、牛久保一色氏の家臣になったのが始祖。 成時は、今橋城(吉田城)築城時に10代将軍・義植より「三河国諸士旗頭」という肩書きを貰っている。

↑ここに、記載してあった記事を検証した結果です。

1505年の今橋城(吉田城)築城時に、室町将軍の足利義稙が、牧野古白に三河国諸士旗頭に任じたというが、1505年当時に足利義稙は、将軍ではなく、また室町幕府にそのような役職はなく、この記述には疑問である。以上の署名の無いコメントは、時空の旅人会話履歴)氏が[ 2007年4月9日 (月) 15:58 (UTC)]に投稿したものです(故城一片之月による付記)。[返信]


時空の旅人さんへ。
足利義稙がたとえ空白期間があっても将軍職であった事実は変わらず(将軍職は足利義澄となお係争中であった)、また三河国諸士旗頭は室町幕府公式の職でなくとも、義稙の私的任命であるとしても不思議ではなく、たとえば徳川家康が酒井忠次に任命した東三河旗頭は家康が征夷大将軍になる以前の私的任命の例であるが事実です。公式的でないから事実でないとはいえないのでは?--故城一片之月 2007年4月9日 (月) 17:37 (UTC)[返信]