ノート:春秋

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「春秋学」節での引用部分について[編集]

春秋学の項

> 例えば、「宋の子爵(襄公の事)が桓公の呼びかけに応じ会盟にやってきた。」というような文章がある。しかし実際は宋は公爵の国であった。これに対して後世の学者は「襄公は父の喪中にも拘らず会盟にやってきた。不孝であるので位を下げて書いたのだ。」と解釈している。

増訂しようと思いましたが、上の文章の経文と解釈が定かでありませんでしたので、まず執筆者に確認させていただくことにしました。経文は恐らく僖公九年のもので、「後世の学者」は穀梁伝ではないかと思うのですが、如何でしょうか? ただ「桓公の呼びかけに応じて」というのは、経文の「夏、公会宰周公・斉侯・宋子・衛侯・鄭伯・許男・曹伯于葵丘。」から直接引き出せないのですが、何に依られたのでしょうか? 同年九月の経文の左伝には、これに類似した話は見えますが、それならば解釈は左伝に依拠する必要があります。ですから、穀梁伝のような「不孝」云々までは引き出せないと思われます。 --以上の署名のないコメントは、220.98.111.44会話/Whois)さんが 2006-09-01 15:09:13 (UTC) に投稿したものです(Yumoriy会話)による付記)。