ノート:日本の戦争賠償と戦後補償

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個人補償についてはまだ調べてる途中ですので、どなたかお詳しい方がいるのであればどんどん加筆していってください。Hermeneus (talk) 2005年6月24日 (金) 09:56 (UTC)[返信]


国際条約で賠償問題は解決済みです [編集]

本節、違法便衣兵氏の2005年12月23日 (金) 12:34 (UTC)付け投稿は、Wikipedia:投稿ブロックの方針#投稿ブロック済みユーザーの別ユーザー名(ID)あるいは別IPアドレスに対する追加ブロックに基づき削除しました。--122.249.101.107 2008年3月2日 (日) 06:15 (UTC)[返信]

半解除のお知らせ[編集]

保護解除依頼に基づき、保護から半保護に切り替えました。KMT 2006年1月22日 (日) 01:06 (UTC)[返信]

中間賠償・国民党が接収した日本人(個人)の財産についての具体的内容[編集]

「<前略>さて、国民党がやってきました。国民党は台湾で何をやったか。邦人を本土に送還するわけですが、日本人が持って帰っていいのは、現金は千円まで、荷物は30キロまでという制限がつけられました。それで16万7000人が日本に帰って行ったそうです。さて没収した邦人の財産はどこに行ったでしょうか?<以下略>」(台灣好好より)

台湾に移民していた個人の財産は、以上のようにして中間賠償にあてられたとか。台湾では問題点として、国庫ではなく国民党自身が今も管理してることが議論になってるそうです。

ソースはよくわかんないですけど、具体的なのでよく調べればすぐに真偽がわかる内容であると思います。中間賠償のどこらかに加えればよいのでしょうが、いかんせん混沌としているので、上手に編纂できる方が適当に編集して下さい。--Qoo 2007年11月13日 (火) 17:10 (UTC)[返信]

少々長文で失礼いたします。 私の祖父は終戦時、満州で唯一の外国為替銀行であった横浜正金(東京銀行)の満州支店長で、私の生まれた2ヶ月後に没していますが、後日、中曽根総理大臣より引き上げ時の苦労や指導による功績に対して表彰を受けました。しかし、戦後は公職追放となりまして、所有していた土地・家屋等は全て占有している人に強制的に権利が移転し、退職金代わりもらった社債や株式も紙切れ同然になってしまったそうです。唯一、只で貸していた家だけは残ったそうです。以下は父親が祖父から直接聴いた話しを伝え聞いたものです。 我が国の敗色が濃厚になりますと、在満州日本国民は財産保全のために換金し、銀行に大量に預け入れをしてなんとか資産を守ろうとしたそうです。終戦直後の新京で祖父は国民軍から取り調べを受けたそうです。そして、殆どの資産はその時に明らかになったのですが、他の取り調べを受けている高官との数字の差を最後まで厳しく尋問されたそうです。祖父は絶対の自信から間違いなく自分の数字が正しいと堂々と主張し、釈放となったそうです。ただ、その際「我々国民軍はこのエリアから本日撤退する。明日になったら共産軍が入ってくるだろう。夜のうちは狙撃等の危険が高いので、必ず昼になってから帰宅せよ!」と念を押されたそうです。そして後日、共産軍にも取り調べを受けたそうです。共産軍の取り調べの様子や内容に関しては話しが伝わっておりませんが、『国民軍は制服も言葉や態度も軍人らしくキチッとしていた。共産軍はそれに比べると身なりも挙止もだらしなかった。』というのが祖父の晩年の口癖だったとのこと。もしかしたら、拷問等にあったのかも知れません。いずれにせよ、引き上げ時の在満州日本人の資産は、いち早く国民軍の手に渡っていたことは、間違いないでしょう。以上、末筆ですが、ご参考になれば幸いと存じます。--Asc08586会話2014年1月6日 (月) 18:47 (UTC)[返信]