ノート:斎藤利三

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明智五宿老って、何ですか?このような用語、聞いたことがありません。出典を明示してください。


蜷川親順の娘の件[編集]

蜷川親順の娘が斎藤利三の母というのは、どういう根拠なのか教えていただければ幸いです。わが国では、姻戚関係でも、父、祖父としていちいち義父、義祖父などとは書きません。親順の子親長の妻が斎藤利賢であるとした場合、その種の混乱が生じる可能性大です。利三の母が明智光秀というのは、春日局(斎藤福)が光秀をオジさんと呼んだというような逸話から作られた比較的新しいもので、古来伝えられているものでありません。古来、伝えられているのは、光秀の叔母(小見の方の妹)であり、その場合、年齢的に問題なく、利三が明智秀満と並んで光秀の最も信頼する重臣であることも説明が容易となります。わが国では、実際の伯父、叔父でなくても、例えば父の従兄弟でも、オジさんと呼ぶのです。 もしご意見がなければ、蜷川親順の娘の部分は、ひとつの説というように書き直したいと考えます。Hironaga--61.23.223.98 2009年2月1日 (日) 10:31 (UTC)[返信]

まずは冷静になって書いてください。内容の一部が意味不明です。蜷川親順の娘が斎藤利三の母というのは、おそらく蜷川家文書によるものでしょう。親順は永禄11年(1568年)没ですが、親順の父・親孝が大永5年(1525年)没というのを考慮すると、天文3年(1534年)?に斎藤利三を生むぐらいの娘が親順にいてもおかしくありません(注:蜷川親孝、親順の没年は「蜷川旧記」(東京大学史料編纂所蔵)に拠る)。--丁度氷 2009年2月4日 (水) 14:38 (UTC)[返信]

稲葉家を出奔した時期について[編集]

現在の記述ですと1580年に稲葉家を出て光秀に仕えた、とあるのですが 「明智光秀のすべて」ISBN 978-4404021397 という本では元亀元年(1570年)に稲葉家を出て光秀に仕官した、とあります。 他に那波直治という稲葉家臣の人物も1582年に稲葉家を出て明智氏を頼っているのですが、そちらとの混同という事はないのでしょうか? 1580年に光秀に属した説は何が根拠となっているのでしょうか?どちらが正しいのでしょうか?詳しい方の補記をお願いします。--ポテンシャル0 2009年9月27日 (日) 01:30 (UTC)[返信]

補足・どうやら稲葉家を出奔したのが1570年、光秀に招かれて正式に領地を宛がわれて取りたてられたのが1580年、という事らしいです。ただ、これは前出の本でしか確認していない事なので、稲葉家を出奔した時期~光秀仕官に至る経緯についての詳細がわかる人がいましたら、引き続き補記をお願いします。--ポテンシャル0 2009年9月27日 (日) 02:25 (UTC)[返信]

あと、ちょっと気になったのは「2年しか仕えていない(これも検証の余地あり)のに、他の明智家の古参武将より重用されている~」というくだりなんですが、「(中途採用なのに)昔から明智氏に仕えている家臣と同等の扱いを受けている」程度の表現なら理解できなくないんですが、「古参より重用された」という根拠はなんなのでしょう?--ポテンシャル0 2009年10月10日 (土) 10:52 (UTC)[返信]