ノート:教皇不可謬説

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えーと、後半から「議論を試みる」等、執筆者個人の見解を述べるような文言がめだつのですが、これを修正して、刊行されている資料にあるようなより一般的な見解として提出することは可能なのでしょうか。

いまのままではWikipediaの項目としてはやや一般性をかき「個人の研究発表」になるような気がします(投稿者の方が別の場所に発表されているものがあるなら、それをそのような意見があるとして書くことは可能かもしれませんが)--Aphaia 2005年8月10日 (水) 01:35 (UTC)[返信]

私もこの記事を読んでAphaiaさんと同じようなことをかねてより感じておりましたので、英語版を参照に少しづつ加筆・改稿してみようと思います。エキュメニズムに関する部分は個人の研究発表という色が強い部分ですし、むしろエキュメニズムの項に移すべきかと思われますのでいったんコメントアウトしておきます。Gakuinryou 2005年11月18日 (金) 08:32 (UTC)[返信]

(ルドヴィク・オットー 前掲書 四巻第二部2章6)との記述が「古代教会における教皇不可謬説の解釈」節の冒頭にありますが、その「前掲」に前掲書の題名などの明示はなく、ただ「神学者ルドヴィク・オットー(Ludwig Otto)は自著において」という文章があるのみです。引用であるらしいので前掲書の明示は不可欠かと思うのですがどうでしょうか? Kzhr 2005年12月27日 (火) 09:00 (UTC)[返信]

Kzhrさんのおっしゃるとおりですね。書名を調べて書き加えておきました。Gakuinryou 2005年12月27日 (火) 11:15 (UTC)[返信]

「ただ、教皇不可謬の権利が実際に行使されることはほとんどないため、このことについて議論すること自体にあまり意味がないように感じられないことがある。」というのは、完全に感想ですね。しかも、意味があるのかないのかまったくわからない。それに続く「カトリック教会の伝統的な見解によれば…」以下の部分もあからさまに教皇の不可謬性を擁護する立場から述べられています。--呆庵入道 2007年2月1日 (木) 12:42 (UTC)[返信]