ノート:攘夷論

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「しかし、文久3年(1863年)に薩摩藩が攘夷を実行した薩英戦争や同時期の長州藩による下関戦争は日本側の大敗北に終わり、外国艦隊との間の圧倒的な軍事力の差に直面したことにより、鎖国政策の維持に固執した攘夷論に対する批判が生じた。」とあります。薩英戦争は薩摩(日本)側の大敗北でしょうか?

薩英戦争の項目では「島津家は2万5000ポンドに相当する6万300両を幕府から借用して支払ったが、これを幕府に返さなかった。また、講和条件の一つである生麦事件の加害者は「逃亡中」として処罰されず。 イギリスは講和交渉を通じて薩摩を高く評価するようになり、関係を深めていく(2年後には公使ハリー・パークスが薩摩を訪問しており、通訳官アーネスト・サトウは多くの薩摩藩士と個人的な関係を築く)。薩摩側も、欧米文明と軍事力の優秀さを改めて理解し、イギリスとの友好関係を深めていった。」とあるため「大敗北」ではなく「敗北」が適切ではないでしょうか?--240D:1:7902:6A00:88FA:5835:EF4:61B8 2017年10月31日 (火) 04:43 (UTC)[返信]