ノート:悪路王

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構成の変更提案[編集]

悪路王」の記事の構成の変更を提案いたします。

提案する理由。現在の「悪路王」の構成は「#賊としての記録」「#鬼としての記録」の2つのセクションに史料が集約され、それぞれのセクション内で各史料の解説をしているのみで、俯瞰するとまとまりがありません。主観を付け加えさせていただくと、鬼と賊という区分自体に意味がないと考えます。

具体的な内容。細かく見ていきますと、一例として「#賊としての記録#日本王代一覧・元亨釈書」では「『元亨釈書』巻第9・感進4之1は、『日本王代一覧』の記述を注釈として引用しつつ、仏教説話に仕立て上げている。」とあります。成立時期1322年の『元亨釈書』が注釈しつつ成立時期1652年の『日本王代一覧』を引用して記述されたのでしょうか。私は「#賊としての記録#日本王代一覧・元亨釈書」の記述は適切なものとは思えません。一例ではありますが、これらを全体的に修正するためには鬼と賊ではなく、悪路王の歴史を時系列的に記述していく必要性があると考えます。

変更案。構成を「成立過程」「地域伝承」「考察」の3つに変更。セクションは「成立過程」が「歴史・名前・史実性の議論」、「地域伝承」が「御伽草子・奥浄瑠璃・地方伝承」、「考察」は単独という形で考えています。そこに「#賊としての記録」「#鬼としての記録」から振り分ける形を提案いたします。書きかけではありますが参考までに「利用者:メメメ/sandbox」で具体的な振り分け私案を作成してみました。

参考記事。私自身は「成立過程」と「地域伝承」を明確に区分した記述を心掛け高丸 (人物)大嶽丸大武丸などを執筆してますので、イメージとしてこれらの記事のような構成です。他の方々が執筆された酒呑童子の「伝説の概要」「御伽草子版」「地方伝説」、玉藻前の「歴史」「伝説の概要」という区分も参考になるかと思います。--メメメ会話2020年1月17日 (金) 00:09 (UTC)[返信]

賛成 当方から異を唱えることはありません。改善はお任せします。
ご指摘のあった『元亨釈書』の件ですが、いま調査したところ底本として明治に書かれた『通俗元亨釈書和解』を使用したためでした。これは原典に当たるのを怠った結果であり、メメメさんを含めた読者諸氏にはお詫びしなければなりません。
もし今の自分がこの記事を書くとしたら、引用文献の底本も記載するはずであり、このような間違いはおきないでしょう。6年前の自分は未熟でした。
ともかく明らかな誤謬なので、メメメさんの修正を待たずにこの箇所だけは応急処置しておきます。--禁樹なずな会話2020年1月19日 (日) 10:10 (UTC)[返信]
了解しました。これまでの「悪路王」の編集方針を可能な限り引き継いだ加筆と修正を心がけてはいますが、誰が討伐したのかや高丸との同一視などについては大幅に違う部分もあるかと思いますので「利用者:メメメ/sandbox」をチェックしていただいたり、編集していただけるとありがたく思います。--メメメ会話2020年1月20日 (月) 08:23 (UTC)[返信]
少し長くなりすぎたかと思いますが全体的に悪路王伝説が成立する過程を意識して書き換えました。おかしな点、変な記述などがあれば容赦なく修正してください。
『鹿島神宮文書』は元号におかしな点もあるのですが、茨城県城里町高久は常陸那珂郡高久村で、『鹿島神宮文書』に花押のある藤原実久=那珂実久であれば鎌倉時代の鹿島の那珂氏あたりから調べられそうかなと思います。--メメメ会話2020年1月21日 (火) 03:22 (UTC)[返信]
おかげさまで記事の質が大いに向上したと思います。ありがとうございました(記事の所有権があるわけではないのですが、まあ気持ちです)。
「良質な記事」の再選考に提出することも考えましたが、現在のところ、冒頭に書いてある「悪毒王と記載している文献とは?」「九州地方に定着した伝説とは?」あたりが不明なので、そこを突っ込まれると弱いでしょうか。--禁樹なずな会話2020年1月22日 (水) 13:31 (UTC)[返信]
Wikipedia内を見渡して悪毒王に触れられているのは百合若大臣#壱岐の風習で執筆されているくらいですね。百合若大臣のページで触れられていたので、ひとまず概要に入れてみたのですが、中途半端になってしまい申し訳ないです。一旦削除してもいいかもしれませんね。
百合若大臣は元寇が発端となって成立していることから吾妻鏡の影響よりも、清水観音(=清水寺)や輝日姫(=田村語りの照日御前?)が結び付いていることから推測して、九州に立烏帽子や田村草子が持ち込まれたものの、田村麻呂は九州に事績がなかったので主役が百合若大臣に置き換えられて定着したのではと思うのですが、壱岐の悪毒王と結び付けて執筆するだけの資料が手元になく、私自身も百合若大臣には疎いので概要で触れるだけになってしまいました。ほんと申し訳ないです--メメメ会話2020年1月22日 (水) 15:49 (UTC)[返信]
報告 定義文の「賊主」の箇所は「首長」に戻しました。これはWikipedia:中立的な観点の方針を考慮してのことです。蝦夷を賊とみなすのは中央政府の視点であり、東北地方の人々にとっては先祖ですからね。アテルイは言うに及ばず、大岳丸・大多鬼丸・赤瀬太郎といった仲間たち(?)が近年は郷土の英雄として顕彰されているので、その流れに従うことにしました。もっとも「悪路王推し」の話はあまり聞きませんが……。
また、時代背景が異なるヤマトタケルや、地域が遠く離れている百合若&悪毒王には、関連項目のセクションに行ってもらいました。これらを悪路王と明確に結びつける資料が出てきたら、あらためて本文に復帰させる形でよいかと思います。--禁樹なずな会話2020年1月25日 (土) 06:07 (UTC)[返信]
「首長」を「賊首」としていた理由を説明します。何を基準にWikipedia:中立的な観点とするかについてですが、私は本文で最古の記録として扱っている以上は『吾妻鏡』原文での表記を基準にすべきであると結論して悪路王を「賊首」としました。
長文になりますが、なぜ原文が基準であるべきか、大切なことなので具体例を提示させていただきます。アテルイの編集で私が最も気を付けたことのひとつが『日本後記』巻第十「延暦二十一年八月丁酉条」にある「夷大墓公阿弖利為盤具公母礼等。此二虜者並奥地之賊首也。」の解釈です。私が参照したほぼ全ての書籍でを「処刑された」と解釈して書かれていました。一方でアテルイを顕彰する会さんが[第29号(2000年3月31日) 12P:アテルイ通信 http://aterui8.jp/newsletter/backnumber/no029.html]で解説してるように、を処刑と解釈すると、アテルイは律令国家が律令によって処刑したということになり、アテルイが律令国家の人物であったという問題を含んでしまいます。アテルイが律令国家の人物であったと「明確に結びつける資料が出てきていない」ことや、私自身が講演会などを聴聞して「斬られた」がWikipediaの中立的な観点であると判断しました。
また高橋崇氏が「アテルイたちは降伏ではなく平和的講和を申し入れた、逆に田村麻呂が和睦を申し入れたが騙されて処刑されたと両論あるが、こうした郷土愛的な側面ではなく、史料的裏付けの乏しい解釈には慎重であってほしい」と著書に記していることを肝に命じています。のように1文字の解釈次第で真逆の論説になるため、このような場合にWikipediaの中立的な観点に当たるものは「可能な限り原典にニュートラルであること」「最終的に原文に忠実であること」以外に不可能であると考えます。
これを前提として言いますと、まず悪路王について様々な論説がある以上は史料的に裏付けられた記述を前提として、誰がどのような論説を提示しているのかを別途記述するのが中立的な観点であるというのが私の考えです。ですので本文で最古の記録としている『吾妻鏡』原文で「賊主惡路王并赤頭等搆塞之岩屋也。」とあることを基準に「賊主」としていただいたわけです。
禁樹なずなさんがおっしゃられる「蝦夷を賊とみなすのは中央政府の視点であり、東北地方の人々にとっては先祖ですからね。」というものは、淡々と成立過程だけを歴史として記述する私の中立的な観点とは方向性の異なる中立的な観点です。
私の方向性では『吾妻鏡』を記したのは律令国家ではなく鎌倉幕府であることから、『吾妻鏡』の悪路王伝説が中央政府の視点であると「明確に結びつける資料が出てきていない」以上、蝦夷を賊とみなすのは中央政府の視点という推測を最初に排除することになりますね。
「賊主」を「首長」とすることに賛同ですので、中立的な観点が喪失した私の編集を排除していただき、以前の記事へと差し戻させていただければと思います。--メメメ会話2020年1月26日 (日) 13:37 (UTC)[返信]
(インデント戻し)なにもすべてを差し戻すことはなかったのではありませんか。旧版には近年の資料に基づく記述が不足していたり、地域伝承が雑多な寄せ集めになっているという欠点があったことは、このノートにおけるメメメさんのご指摘で明らかになっており、それが差し戻しによって戻ってきてしまいました。これは望ましい状態とは言えません。
それと『吾妻鏡』の視点についてですが、あの史書に一見すると鎌倉幕府とは無関係のような悪路王伝説が挿入されているのは、源頼朝の業績を坂上田村麻呂になぞらえているからです。「かつて田村麻呂が悪路王を討ったように、今また頼朝が奥州藤原氏を平らげたよ」と言いたいのです……奥州藤原氏が蝦夷でないのは明白ですが、なにしろ『中尊寺供養願文』では藤原清衡が「東夷の遠酋」と自称しているくらいですから、当時はそのあたりが一緒くたに扱われ、「征夷大将軍が武威を示すべき対象」とみなされていたのでしょう。
こうした鎌倉時代の物の捉え方を、現代のWikipedia利用者が共有しているとは考えにくいことです。だから記事冒頭の定義文に『吾妻鏡』の表現を生のまま置くことは適切でないと判断しました。いっそ「『吾妻鏡』に賊主と記された人物」みたいに遠回しな書き方だったら、手を付けなかったかもしれません。
しかしながら、「可能な限り原典にニュートラルであること」というメメメさんのポリシーに何らかの瑕疵があるものではなく、そうした姿勢はむしろ賞賛すべきものです。メメメさんの書かれた文章を排除しようとするならば、当方は異を唱えます。たとえそれが執筆者ご自身であってもです。
2020年1月25日 (土) 05:52‎ (UTC) の版に戻すことが、現状で実現できる最善策ではないでしょうか。操作自体は簡単なので、いつでも実行できるのですが、力づくで押し通すような真似は避けたいと思っています。できればメメメさんにもご自身の文章の復帰に同意していただきたいのです。思い直してもらうわけには参りませんか。--禁樹なずな会話2020年1月27日 (月) 13:30 (UTC)[返信]
悪路王についてWikipedia:中立的な観点がどこにあるのか、これは非常に大きな問題であると認識していますので、私の勝手な考えになりますが共有できる部分があればと思い整理します。
関幸彦『英雄伝説の日本史』「悪路王伝説、あるいは敗者の記憶」や内藤正敏『鬼と修験のフォークロア』「鬼の物語になった古代東北侵略」など、田村麻呂がアテルイを倒した蝦夷征討が伝説化したものが悪路王伝説となったと解釈されている書籍が多いです。
一般的にも悪路王=アテルイと思われていますし、最近はサブカルチャーでもそのように扱われていますね。私も悪路王=アテルイという視点からニュートラルな視点で悪路王の記事を書ける程度には資料には困りませんし、そもそも悪路王=アテルイだと考えていました。
また、私もなずなさんがおっしゃられる「アテルイは言うに及ばず、大岳丸・大多鬼丸・赤瀬太郎といった仲間たち(?)が近年は郷土の英雄として顕彰されているので、その流れに従うことにしました。」と近い考えを持ってました。
しかし各種顕彰に対して考え方を改めたのは、お恥ずかしい話ですがノート:アテルイ#枚方市宇山の塚についての中で議論されていた「枚方市の首塚問題」を知ってからです。詳細は以下HPを参照していただければと思います。情報201 論文「蝦夷の首長アテルイと枚方市」:アテルイ復権の軌跡:資料:アテルイ情報-アテルイを顕彰する会アテルイ塚の嘘 | ALIS
Wikipediaは世間に対して影響力もありますし、このような荒唐無稽な顕彰に荷担してしまう記述は避けるべきである、それが最も中立的な観点であると思いました。
そうなると悪路王もノート:アテルイ#アテルイの評価と悪路王でKinoriさんが2005年と早い段階からおっしゃられている「悪路王=アテルイ説は、田村麻呂伝説が生きていた中世には一顧もされませんでした。多分に現代人の願望がまじった解釈です。これを確定的な説として紹介するのは不適当だと思います。」が本質ではないかと。つまり悪路王=アテルイという出発点がそもそも中立的なのか? という疑問の発生ですね。
そうして見ていくと古くは『平泉雑記』で相原友直が研究されていますが、悪路王=アテルイとして顕彰されはじめて以降、ここ2~30年の中で阿部幹男『東北の田村語り』が稀有な例でした。
しかし私の考えや記述は参考文献が『東北の田村語り』に寄りすぎていますし、そもそも独自研究も多分に入っているでしょうから、原典でどう表記されているかが唯一の中立的な観点です。
ですので、なずなさんのおっしゃられる「蝦夷を賊とみなすのは中央政府の視点であり、東北地方の人々にとっては先祖ですからね。」という視点が私から見ても中立的な観点なんです。実際にこの視点で書かれている資料が大多数ですし、やはり私の記述に瑕疵があったものと思います。--メメメ会話2020年2月3日 (月) 14:36 (UTC)[返信]
提案 あらためて利用者:メメメ/sandboxに酒呑童子のページを参考とした冒頭文の書き換え案を作成しました。あわせて冒頭文をシンプルにし、概要の節を作成してそこで冒頭文を補足する形にしましたがどうでしょうか。
冒頭文では「鎌倉時代に記された東国社会の伝承に登場する陸奥国の伝説上の人物」とだけ記述しておき、概要で「どの文献で何と呼ばれたか」を簡潔に記述して本文に繋げる形であれば、私の視点となずなさんの視点ともに中立的な観点となり、あとから他の方が新たな史料を元に編集される場合でも冒頭文をそのままに概要のみ追記するだけで中立的な観点は確保できるかと思われます。
表記ゆれだけは冒頭文に入れておくのがベストだと考えています。理由は記事が長文であるため、悪来王や阿久良王などからリンクを辿った場合に冒頭であれば間違ったリンク先ではないと認識しやすいという点からです。
ご確認いただいて、問題箇所があるようでしたら意見をいただければ嬉しいです。--メメメ会話2020年2月3日 (月) 21:46 (UTC)[返信]
コメント ご提案を支持します。どうぞやってしまってください。
強いて難を挙げるとすれば、阿久留王の名前を出しているのに、本文に解説がないことでしょうか。とは言え最初から完璧である必要はないですし、当座は軽く触れる程度で構わないかと思います。阿久留王について書くとしたら、悪路王の1セクションよりも単独記事がふさわしいのではないかとも考えております。--禁樹なずな会話2020年2月4日 (火) 13:52 (UTC)[返信]
ありがとうございます。構成を変更させていただきました。
阿久留王についてですが、千葉県の誌史をあたってみようかと思います。悪来王について少しですが資料を集めましたのでそれからになりそうです。
また一部ですが高丸のページへの移動が妥当ではないかと思われる記述については別途まとめますので、あらためてご意見を伺えればと思います。--メメメ会話2020年2月4日 (火) 15:34 (UTC)[返信]

一部記述の高丸への移動の検討[編集]

「栃木県#那須の伝説」「滋賀県#近江国蒲生野の伝説」および「伝承地#神楽岡」は高丸 (人物)への移動が妥当であると思われますがどうでしょうか。 これらは『元亨釈書』の要素である「駿河国清水関」「神楽岡」という概念が色濃く、『平泉雑記』でも「悪路王赤頭ノ名ハ東鑑ニ出」「田村高丸ヲ討ト云ハ元亨釋所ニ出」と出典の出自から系統を分けていますので『吾妻鏡』に由来しない上記については移動が適切ではないかと考えます。 悪路王は「達谷窟」について、日高見の窟という概念が影響しているのでそちらを補足していく方向がよいかと思われます。--メメメ会話2020年2月4日 (火) 15:53 (UTC)[返信]

賛成 悪路王の記事を作成したときは高丸と同一人物というスタンスで情報を集約しましたが、いまは高丸の記事が別にありますので、そちらに移したほうが良いものもあるでしょう。
数ある伝承の中には「高丸悪路」とか「悪路王大高丸」みたいな、どっちだかわからない人も出てきますが、こういうのは敢えて両方の記事に重複させて載せてもよいと思います。--禁樹なずな会話2020年2月5日 (水) 10:00 (UTC)[返信]