ノート:帥升

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帥升=孝安天皇説について[編集]

2006/5/18のこの編集2006/5/19のこの編集で、帥升=孝安天皇説が記述されています。しかし、5世紀南宋期に成立した『後漢書』に、東方小国の王の名が重箱読み/湯桶読みで記載されたとは、とても考えられることではなく、孝安天皇説は学説というよりもちゃんとした学術検証を経ていない単なるアイディアに過ぎないであろうと思われます。wikipediaはそうしたアイディアや思い付きを記載する場ではありませんので、とりあえずコメントアウトしておきました。特にご異論がなければ、1週間後くらいを目途に当該記述部分を消去しておきます。どうぞよろしくご理解願います。--shimoxx 2006年5月19日 (金) 13:57 (UTC)[返信]

削除に反対します。邪馬台国の項目にも珍説奇説のたぐいが記載されています。そしてwikipediaは推論を推論として書くことを禁じていません。また、この説は決して思い付きのたぐいではありません。孝安帝は倭から朝貢してきた人物を、国王に任命していないのですから、倭国王と読む解釈は不自然です。それに「帥升ら」と読む解釈では、国王自ら臣下を引き連れて、中国大陸まで朝貢に来たことになってしまいます。『後漢書』が何世紀に成立しようと、編者が参照したであろう古代の文献に、そう記載されていた可能性を排除するものではありません。--60.46.208.6 2006年5月20日 (土) 11:08 (UTC)[返信]

他項目に珍説奇説が記載されているからといって、それを免罪符にしてしまってはwikipediaは珍説奇説百科事典になってしまいます(邪馬台国も非常に頭の痛い項目なんですけれどもね)。それはともかくとして。
既にご承知とは思いますがwikipediaは自説を載せる場ではありません。「思い付きの類ではない」とご主張されるのであれば、孝安天皇説を唱えている研究者・論文が存在していることと思いますので、まずそれをご提示ください。その上で、孝安天皇説が学術研究の場で受容されていることが確認できれば、wikipediaに載せることを検討しましょう。ちゃんとした学術査読を受けていなければ、それは学説ではなく単なる思い付きやアイディアに過ぎないのです。
それから、本ノートでの議論を終えないまま、コメントアウト部分を復帰されたことは非常に残念に思いました。読者へ誤った認識を与える可能性のある記述は、とりあえず消去するかコメントアウトするのがウィキペディアの慣習となっています。ご不満も多々おありと思いますが、本ノートでの議論が終わるまでは、どうぞコメントアウト部分を復帰させることなく、冷静なご対応をお願いいたします。--shimoxx 2006年5月20日 (土) 11:39 (UTC)[返信]
判りました。頭ごなしに全否定されたように感じて、独断的にコメントアウト部を解除してしまったことはお詫びします。ただ孝安という諡号が後漢の孝安帝から採られていると言う事実は否定できないと思います。一応コメントアウトされた部分を、コピーして置きます。
孝安天皇
倭国王帥升等は「倭国王の帥升ら」ではなく、「倭の国王帥升等(クニオシヒト)」と音訓混じりで読むべきという説もある(升は飛の略字と解釈する)。この説だと、国王帥升等は、国押人命(クニオシヒトノミコト)と呼ばれた第六代天皇の孝安天皇に相当することになる。この説は、孝安天皇という諡号の由来について、後漢朝の孝安帝に朝貢した事跡を記念して付けられた可能性を示唆している。--60.36.95.85 2006年5月20日 (土) 14:13 (UTC)[返信]
ご不快を感じるような書き方をしてしまったのは済みませんでした。
孝安天皇の前後には孝○という諡号の天皇が連続していますので、孝安という諡号が後漢安帝に由来しているとは必ずしも断定できません。本当のところは淡海三船に訊いてみないと判りませんが、たまたま一致しただけとする見方も十分に成立します。諡号に用いられる字は結構限定されていますので、歴史上、複数者の諡号が一致することはそう珍しいことでもないからです。--shimoxx 2006年5月20日 (土) 16:54 (UTC)[返信]

帥升は黄海沿岸部に勢力を持つ倭人国の王では?[編集]

 本文中で帥升の倭国の所在地に関し、「九州地方の可能性が高い」とのコメントですが、疑問です。 何故なら、160人もの生口を洛陽に献上できたのは、帥升が洛陽から近い黄海沿岸部に勢力を持つ倭人国の王だった可能性を考慮しても良いと思います。

(大人数の生口連行に必要な携行食糧を考慮すれば、近場でないとデメリット大) 

例えば、魏志倭人伝に記された3世紀邪馬台国への旅は数ヶ月かかっています。 卑弥呼の時代よりも100年以上古い107年に大人数で対馬海流を横断する船旅は、より困難だったと考えます。

ちなみに、178年、鮮卑の檀石槐に拉致された倭人1000人が洛陽の郊外で漁業していた事実もあります。(『後漢書』(烏桓鮮卑列伝)) 古代の倭人国家を日本列島や九州に限定すべきでないと考えます。