ノート:山中幸盛

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項目名は山中幸盛が正しいのでは?[編集]

ウィキペディアでは項目名は実名が原則の筈です。ましてや通称には「鹿介」と「鹿之助」の二つの表記方法があるので、その点から言っても山中幸盛が項目名として正しいのでは?--水野白楓 2005年11月3日 (木) 02:32 (UTC)[返信]

一騎討ちの記述について[編集]

諸説ある場合は両説併記が原則のはずです。しかも、出典を明らかにしていない解釈だけを載せるのは如何でしょう。講談による付託というなら、その証拠もしくはそれを明らかに出来る出典を明示すべきではないでしょうか?少なくとも私の記述は文献をもとにしています。--謝艾 2008年3月6日 (木) 10:15 (UTC)[返信]

記述について公平にするならば“恐らく毛利側が改竄”したという記述は不要では?この部分についての出典がありましたらお願いいたします。とはいえ、私も編集合戦にするつもりは毛頭ありませんので、実際は不明で両論併記という形でいかがでしょうか。--Kuma83 2008年3月6日 (木) 12:37 (UTC)[返信]

『雲陽軍実記』の成立は天正年間であり、『陰徳太平記』に較べて100年以上も早く成立しています。さらに『陰徳太平記』には毛利側に有利になる改竄が多い事は指摘されている事です。後代に成立した史料で、しかも従来と記述が変わり、それが毛利側に有利な改変とあれば、疑うところもないのでは?出典といわれるなら講談云々の件と違い、史料名を明示していますので、そちらをご参照頂ければ一目瞭然だと考えます。--謝艾 2008年3月6日 (木) 13:59 (UTC)[返信]

雲陽軍実記の成立は確かに1580年とされていますが、その内容についても疑問点が当然あります(例えば尼子晴久の生年が1508年となっていますが、それは一般的に採用されていません)。つまり古いからということは記事の正確性には繋がらないということは明白です。例えば甲陽軍鑑も年代的には古いものですが、それでも内容には大きな疑問があります。まぁ陰徳太平記の内容の微妙さには笑うしかありませんが(笑)。元春妻不細工伝説も捏造ですしね。毛利側の資料なら二宮俊実覚書と森脇春方覚書が一番成立時期が戦国期に近いので、ちょっとそれを当たってみようと思います。--Kuma83 2008年3月6日 (木) 14:45 (UTC)[返信]

なぜ急に項目の記事を大幅に削除してしまったのでしょうか?誤字・脱字だったとは思えませんし、記載内容に誤りがあったのであれば、改変前にノートで通知して頂けないでしょうか?--謝艾 2008年4月26日 (土) 11:29 (UTC)[返信]

実像の削除についてはノート:今川氏真にもあるように、個人的な感情で評価をwiki上で行うことが適切なのか考え、中立的な観点からも自己作成部分を含め、出典も無い不明な事案を繰り返して編集し合うよりは削除したほうが建設的であると考えた次第です。先走りで削除したことについては謝罪します。ちなみに私は幸盛寺の墓所も訪れたこともありますし、アンチではありません。--Kuma83 2008年4月26日 (土) 19:23 (UTC)[返信]

"個人的な感情で評価"という部分がよく分かりませんが・・・。私が編集した内容は全て出典も明記されておりますし、もし件に該当するとしたら、"以上のように幸盛は武勇に優れ、個人の武勇で尼子氏の再興を賭けた幸盛の戦いは、結果の是非はどうであれ、その生き方は武士の鑑であった。"というものの方ではないでしょうか?なぜかこの部分だけは削除されていませんでしたが・・・。それとアンチというのも意味が分かりかねます。第三者に閲覧・確認可能な形で出典を明示するのがWikiの基本スタンスであり、残念ながらkuma83さんの当初の記事"しかし講談以外の資料によると品川大膳との一騎打ちでは、逆に討ち取られそうになったところを仲間の支援を得て討ったと記録されている。後者の方が話が具体的であり、信憑性が高い。講談として語られる中で、付託・創作されていったのだろう。"は非常に主観的で出典も皆無の個人的感想の書込みだったので編集させて頂いただけです。kuma83さんは当初の書込みからみても私の書込み内容が個人的にお気に召さないようですがあくまで中立性を重んじて頂けると幸いです。--謝艾 2008年4月27日 (日) 01:26 (UTC)[返信]

実像の項目に史料自体の自己研究結果は載せる必要がないと思われたので、編集いたしました。ただ、『雲陽軍実記』の方はWikiに項目が立てられていないため、便宜上参考となる"事実"のみ付記いたしました。--謝艾 2008年4月27日 (日) 01:29 (UTC)[返信]

内容の削除について[編集]

実像の項目がどういうわけか削除されていたので復活しました。削除された方はノートできちんと議論した後に行ったのでしょうか?内容が不適切であるならば、その理由を明示して了解を得てから行うべきでは?--202.7.119.11 2008年4月8日 (火) 04:46 (UTC)[返信]

金戒光明寺金光院内の墓(五輪塔)に刻まれる銘文について[編集]

金戒光明寺金光院内にある幸盛の墓(五輪塔)に刻まれる銘文はどちらが正しいのでしょうか?

私が参考にした資料『山中鹿介のすべて』(米原正義 編)には、「潤林院殿大誉淨了禅定門」と記載されています。

一方で 210.236.23.235 さんが記載されたように「潤林院殿太誉淨了大禅定門」とされている場合もあります。

どなたか正しい銘文をご存知の方はいらっしゃらないでしょうか。


--SNHRRN会話2012年6月26日 (火) 11:58 (UTC)[返信]

幸盛寺の”山中鹿介の墓に刻まれる碑文[編集]

幸盛寺の”山中鹿介の墓に刻まれる碑文は「天正十一癸未七月二日 為幸盛寺殿潤淨了居士 沙門蓮社照誉上人建之」です。

「淋」ではありません。実際に行って確かめているので間違いありません。 その時撮影した写真もありますので、ご確認ください。

--SNHRRN会話