ノート:小松宮彰仁親王

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

Teda wakou氏の主張する蝦夷地開拓の件について[編集]

アカウントを所持していないためIPにて失礼いたします。貴方の主張を採用するには問題点があります。というのは嘉彰親王は蝦夷地経営について関与しておりません。この文書は清水谷・高野両卿の蝦夷地経営の建白が前提としてあり、それに対し慶応4年3月中に各議定への諮問および各参与への諮問が行われ、議参あわせてざっと20~30の返答があり、そのうちのひとつの意見でしかないということです(詳細は『復古記』当該月)。さらにこの嘉彰親王の文書は採用されておらず、彼の蝦夷地経営に関してはこれだけでしかないということです。つまり「深く関わってい」たり「功績」はなにひとつないということです。またリンク先の個人サイトを拝見させていただきました。おそらくそこでの主張に基づいて、この項目での記述がなされていると思いますが、それは独自研究でしかありません。もし主張どおり、彼が蝦夷地経営に関わっていたというのであれば、その証明が必要になります。貴方が自ら運営するサイトでなにを主張するかは自由ですが、それをここに貼るというのは非常に問題行為です。よって削除させていただきます。なお参考までに。1)嘉彰親王の事蹟(『百官履歴』『大久保利通日記』『広沢真臣日記』など)を見れば、彼が留学までの期間、蝦夷地経営に「関わる隙」がないことがわります。とくに明治2年以降は黒田清隆が蝦夷地経営の中心となりますが、その動向は『大久保利通日記』『大久保利通文書』などを参照のこと。ここに嘉彰親王は無関係です。2)当該文書について。公文録はあくまでも写しであり、原文書は草書です。よって公文録の文書を恣意的に縦横に抜き出したり、斜め読みしても意味がありません。そもそも草書でそのようなことは不可能だからです。また通常に読んで文意の通るもの、しかも諮問への回答に暗号を用いる必要性はありません。もし、必要であるというのであれば、なぜこの文書だけが必要なのか?それを説明する必要があります。以上独自研究として削除した理由です。--2400:4050:8100:6E00:7454:147D:40C7:61A3 2020年7月24日 (金) 01:41 (UTC)[返信]


公文書の画像であてっも掲載しているのは貴方のサイトです。公文書の画像は公開されているのでそちらで。また上述したとおり、この文書を以て蝦夷地経営に「深く関わっている」ことにはなりません。『復古記』第2冊、737-748頁を参照のこと。繰り返しになりますが貴方の独自研究にすぎません。--2400:4050:8100:6E00:35DB:A139:431C:5E2A 2020年7月24日 (金) 09:04 (UTC)[返信]

では、何故、仁和寺宮(小松宮)の清水谷侍従が蝦夷地開拓に係わる事となったのでありましょうか?当該、「清水谷侍従が蝦夷地開拓に係わる以前」に「軍人皇族である仁和寺宮が蝦夷地開拓に清水谷侍従を“推薦”している」公文書となります。即ち、時系列を追うと、≪1:仁和寺宮が清水谷侍従を推薦する≫⇒≪2:清水谷侍従が採用され蝦夷地開拓に名を連ねる≫となります。 したがって、蝦夷地の開拓に関し、仁和寺宮の意見が採用され、“仁和寺宮の清水谷侍従”が採用された事となります。即ち、これら公文書に記述されている事柄は、独自研究以前の問題であり、公文書に記述されている文字を読む事が可能ならば蝦夷地開拓に係わったのが仁和寺宮である事が分かる史実であります。

※蝦夷地開拓に関わっていないのならば、なぜ仁和寺宮は蝦夷地に言及されたのですか?貴方が示されている資料には「蝦夷地開拓に関わっていない証明となる文章」が含まれていないのですが?

※蝦夷地開拓に関わったのが仁和寺宮ではないならば、私が示している公文書はフェイクだと言われるのでしょうか?--Teda wakou会話2020年7月24日 (金) 10:49 (UTC)[返信]

現代の公刊されている書籍で開拓に関する事績が記されているなら記事にしましょうね--代言人(/) 2021年9月21日 (火) 18:05 (UTC)[返信]

彰仁と改名した時期[編集]

名を「彰仁」と改めた時期を追記ねがいます。宮号を小松宮と改めた時と同時でしょうか?--代言人(/) 2021年9月21日 (火) 17:58 (UTC)[返信]