ノート:小早川秀秋

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「裏切中納言」という単語が何処を探しても見つかりませんでしたので、削除いたしました。編集者は根拠の提示をお願いいたします。

--kuma832005年12月17日 (土) 05:24 (UTC)[返信]

小早川秀秋について[編集]

小早川秀秋が関ヶ原の合戦後に所領した備前と 美作は荒廃していて、それを急速に復興させて いると思うのですが。(例えば岡山城の堀を20 日間で以前の2倍にしています)

領主としても優れていたのではないかと思いま す。

そういったことを追加していただけないでしょ うか?

私は下記のブログで「小早川秀秋」について紹 介しています。

 「関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋」   http://ykblog.ameblo.jp/

よろしくお願いいたします。
Wikipedia:井戸端 (告知)2006年5月13日 (土) 15:24 の版より。投稿者220.158.144.28氏を転記--すぐり 2006年5月13日 (土) 15:52 (UTC)[返信]

上記内容がWikipedia:井戸端 (告知)に来ていたので、転記しておきます。あまり詳しくないので、指摘が適切かどうかは、私には判断付かないのですが、わかる方反応していただけると嬉しいです。--すぐり 2006年5月13日 (土) 15:52 (UTC)[返信]


小早川秀秋の兄弟二人が同日同所で頓死したという話のソースは何でしょうか? 木下俊定 木下秀規についてググっていただければ、出てきますよ。結構有名な話のようです。 しんぺい 2006年6月16日 (金) 16:13 (UTC)[返信]


ソースは「梵舜日記」でしょう。ただし、同日でも同所でもありません。「頓死」とは失礼な表現ですね。 なお、編集、投稿される方は、対象人物をさげすむような記述には必ず「出典名」を明記されるようお願いします。 --Houjun ni 2006年10月29日 (日) 01:01 (UTC)[返信]

関が原の布陣図を見れば分かると思いますが、家康の陣と秀秋の陣は遠く、威嚇発砲してもそれが家康の陣から放たれたものだとはわからないと思います。多分流れ弾が飛んできた、位にしか思わないと思うのですが、どうでしょうか。ほぼそれが確実だと思うので、その部分は全て削除してしまっても良いと思います。

威嚇発砲を実行する兵士が家康の陣から動かずに威嚇発砲したとは限らないでしょう。旗印か何かで家康配下と判る兵士が、小早川陣から視認できる距離まで前進し発砲すれば、小早川秀秋も家康から威嚇されていると理解できると思います。場合にっては言葉を聞き取れる近距離まで近づいて恫喝の口上を述べながらの発砲も有り得ます。--Tokugawa 2008年4月12日 (土) 11:18 (UTC)[返信]

>高台院は石田三成と非常に親密であり、逆に長政や幸長は高台院とは親密でない(幸長の母が高台院の妹という関係はあったが、高台院の側近は三成派が固めており、高台院が三成、宇喜多秀家、大谷吉継を支持していたのは明白である。

「関ケ原の戦い」中の上記解説、あまりにも無責任。「一説には」と断わるべきでしょう。

「凡舜日記」、「当代記」などの一次史料に基づいたものです。何をもって無責任と仰るのか、根拠をうかがいましょう。--歴史研究家 2007年2月12日 (月) 10:46 (UTC)[返信]

小早川秀秋の梅毒罹患説は感染時期と推測される朝鮮の役から5年後で死亡する可能性は高く、また奇行も脳梅毒の可能性が考えられ、有力な一説と推測されます。病理的な説も提示するべきかと考えますがいかがでしょうか?--HI 2007年2月14日 (水) 12:00 (UTC)[返信]

梅毒罹患説? 出典を提示しないと説得力ゼロですよ。

> 小早川秀秋が関ヶ原の合戦後に所領した備前と美作は荒廃していて、それを急速に復興させていると思うのですが。(例えば岡山城の堀を20日間で以前の2倍にしています)

関ヶ原の役で大きな戦闘があったわけでもない備前/美作が「荒廃している」と主張される根拠は何でしょうか? 敵対していた大名の領地に入る場合には、新城築城や城の拡張は結構行われています。岡山城を拡張したとしても別に不思議はありません。目的は新領主の権威を示すことや領内での反乱への対策で、復興とは無縁のものでしょう。新領地での収入確定のための検地や人気取りの寺社への寄付もごく普通の政策で、復興策ではないのではないでしょうか。


「荒廃している」と書かれていますが、おそらく切支丹宗徒(文吏派)と日蓮宗徒(武断派)の対立に終始していて、人心は「荒廃していた」と言えるのでは。また宇喜多秀家を評して「驕慢ますます増長し、鷹狩、猿楽を愛好し鷹ならびに鷹匠や猿楽の役者を多く養いかかえたので、失費おびただしく…」(物語藩史)とか「家中の領分を過半取り上げ、又寺社領多く止められて、二十余万石を打ち出し、此の事につきて老臣以下不平の事出来…」(備前軍記)ともあります。--houjun_ni

〔死因〕の項で、下記の部分は投稿者の主観ですから削るべきではありませんか。「青年元帥」云々も独自研究と指摘されても仕方ないと思いますが・・・。

『先の広島平和式典においては、天皇陛下まで、過去の過ちを忘れて、同様な言動を行う始末である。正常な成人の認識では、人類社会の目的は全ての人々が生存を確実に行うためであり、その主導能力を持ちえる者が、生存リーダーとなる。日本は、古来から近隣諸国の優秀な者を神である命(みこと)として、迎え入れてきた。つまり、優秀な複合民族国家であった。青年元帥小早川秀秋もこれらの志の基に、その時代の日本文明の限りの中で、止むを得ず朝鮮出兵に参加をしたに違いない。』 Houjun ni 2007年6月13日 (水) 03:03 (UTC)[返信]


〔人物〕の項(下記)で「記録が残っている」としながら記録の名称をなぜ付記しないのですか。明記するか、削除されたし。2009年3月1日 (日) 03:03

>筑前太守であった頃の行跡は不品行で、家臣から度々の諫言を受けると逆上して手討ちにしたり、実際に秀秋の暗愚を見放して小早川家を去った重臣も居たなど、秀秋が当時の共通認識である「胡乱の人」という評判を裏付けるような悪行を行っていたという記録が残っているのも事実である。

テンプレート「未検証」「出典の明記」「独自研究」の使い分け[編集]

テンプレート「未検証」「出典の明記」「独自研究」の使い分けについて意見のすりあわせを行い、ある程度の統一見解を作りたいと思います。

ご意見をお持ちの方はTemplate‐ノート:Unreferenced/テンプレート「未検証」「出典の明記」「独自研究」の使い分けまで。 Penpen 2007年6月23日 (土) 00:10 (UTC)[返信]

朝鮮役 蔚山の戦いへの参加[編集]

蔚山救援で叱責された話は良く聞くのですが・・・実際の所、本当に秀秋は蔚山戦に参加したのでしょうか?--yasumi 2008年8月8日 (金) 12:58 (UTC)[返信]

太田一吉の家臣・大河内秀元が残した『朝鮮記』によれば、大将軍秀詮公(秀秋のこと)は一陣にあったという。まわりが「御本人の先陣はもったいない」と止めると、秀詮は「予が渡海するといえども、釜山海の城代を仰せ付けられ、何のしるしもなく無念のみに暮らしてきた。この表の追討は願う所の幸いである。汝等が働くのは珍しいことではない。とかく今日の戦場は予が心に任せよ。一人も先に出てはならぬ」と堅く仰せになって、敵十万騎の備えの中へ一文字に乗り入れたと書く。そして原文をそのまま引用(『続群書類従・第20輯下』より)すると、「然るに秀詮公。敵十万騎か其中を八方に乗違へ。十文字に乗破玉ひ。備前兼光波をよきと云御腰物を抜持。片手討諸手切。甲ぐるみ。小手ぐるみ。向けさ。馬の頭馬の首。あたる処を幸に。十三騎御自身御手に掛玉ふ」との鮮やかな働きをしたのである。(小早川隆景のすべて―新人物往来社編―P178~179)

とあります。私が思うに、事実はともかく「秀詮公」と大河内が記している所にこそ筆者の思いがあると思う。主君太田一吉は三成と昵懇で最後まで関ヶ原で西軍に付き徹底抗戦をした大名です。当然その家臣団や家族も巻き添えをくらい秀秋には憎悪を持っても可笑しくはない人物ではありますが、「秀詮」と言えば秀秋が関ヶ原後に名乗った名であります。

秀秋は、自身の分岐点に名を変えて居り、慶長2年秀吉から渡海を命ぜられ渡海に赴くも養父隆景が亡くなり、蔚山戦の戦いの前には既に所領没収の憂き目に遭い(正式では無いがwikiに書かれてる通り帰国の命令と所領の代官は幸長、三成に下ってる)秀秋と名乗りを変えたのも豊臣家との決別の意思を示す意図もあったかに思う。

太田一吉の家臣は他にも侍医として従軍した僧、慶念の日記が有名です。彼の日記を読むに籠城軍は悲惨極まりなく、何時死んでも狂っても可笑しくない状況でした。 蔚山戦の援軍では毛利秀元、黒田長政が有名ですが、実際はこの二将の軍だけではどうにもならず、一時撤退し黒田が釜山護衛の秀秋に要請の使者を送っています。

恐らく日記を書いた当時、秀秋は既に他界しており秀秋への世間の風評は悲惨極まり無いものだったと思います。大河内秀元はそんな世間の風評に一擲を投ずる覚悟で書いたのかも知れません。しかし後世この思いは伝わらず、この話から老人女子供を殺戮した等々事実とは到底在りえない話(軍隊に包囲されてる側への援軍ですから)が創られ、あたかも任命放棄の功名心で動いたように面白可笑しく語られることに私は違和感を覚えるのものであります。