ノート:安田義定

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何だか、甲斐源氏を頼朝とは別個勢力であるとする説を前提に改稿されてしまいましたが、この説は定説化しているのでしょうか?わたしが加筆する際に参照した資料、たとえば昨年に刊行されたばかりの「山梨県史」では吾妻鏡の記述をどう解釈するかに争点はあるものの、別個勢力であるかは断定的ではなかったように記憶しているのですが。具体的にどの研究者の指摘で、どの程度受け入れられているのか研究動向をお示しいただけないでしょうか。あと、削られている情報があるようですので、その点も気になります。--でここ 2008年3月8日 (土) 09:48 (UTC)[返信]

甲斐源氏を頼朝と別個の勢力とみなすのは古くは1966年安田元久「源平の争乱」にて記載されており(安田氏は富士川以降に一時期の治承寿永の内乱の中心勢力は頼朝ではなく
甲斐源氏であったとまで述べておられます)
また、最近の刊行物でも関幸彦「源頼朝ー鎌倉殿誕生」(2001年)、上杉和彦「戦争の日本史6 源平の争乱」(2007年)にては甲斐源氏と頼朝は別個の勢力だとの認識でいるようです。
「現代語訳吾妻鏡 第1巻 頼朝の挙兵」(2007年)では「頼朝は富士山麓を南進してくる甲斐源氏との連携に成功し」と冒頭の「本巻の政治情勢」に記されています。
最近の刊行物を読む限りでは頼朝と甲斐源氏は別個のものと認識して書かれているものが多いように見受けられます。--219.105.204.229 2008年3月8日 (土) 14:04 (UTC)[返信]

なるほど、甲斐源氏を別個勢力とする説は支持を得ているのですね。典拠をご提示頂いて、ありがとうございました。ただ、別個勢力とするのを「妥当であると思われる」と表現するのはやや独自研究的であるかと思われますので、この点だけ改めていただければと思います。--でここ 2008年3月10日 (月) 12:08 (UTC)[返信]

修正しました。--219.105.203.1 2008年3月15日 (土) 12:03 (UTC)[返信]

梵鐘の寄進[編集]

ですが、あれは本来的には梵鐘自体の銘に寄進されたことが記されているのではないでしょうか。--でここ会話2012年8月20日 (月) 13:02 (UTC)[返信]