ノート:天徳寺

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紙衾のことを何故天徳寺と言うのか?[編集]

理由などご存知の方いたら書き込みお願いします。--とろろ 2007年6月3日 (日) 23:43 (UTC)[返信]

改名及び分割提案[編集]

天徳寺となっている本記事について天徳寺 (秋田市)に改名。跡地に天徳寺 (曖昧さ回避)を移動して平等な曖昧さ回避化することを提案します。
秋田市の寺院記事は2006年9月21日立項ですが、福井県若狭町の同名寺院が2010年10月に立項されています。若狭町の寺は養老年間(717年~724年)の創建とされており、1462年創建とされる秋田市の寺よりは歴史があります。

また、併せて秋田市の寺院記事から水戸市の寺院記事について天徳寺 (水戸市)として分割することを合わせて提案します。
水戸の寺は、秋田に移った寺の衣鉢を継いでいて歴史的には同根とは言え、現在は別の寺院で分院などではありませんので、WP:D#廃止された方式の「1ページに共存」に近いものと考えます。分割に当たっては秋田の寺院記事の「歴史」節・第1パラグラフと、「水戸天徳寺」節の全文を転記します。残念ながら出典が付いてないので、「出典の明記」テンプレートを貼っての分割立項になってしまいますけど。--KAMUI会話2019年12月17日 (火) 21:07 (UTC)[返信]

改名には異論はありません。分割には反対します。分院であろうとなかろうと歴史的に同根、で、かつ大部分が秋田の天徳寺の記事の内容と同じとなるなら、分割せずとも同じページで解説する方が双方の歴史を1つの記事内で把握することができ、よりわかりやすいでしょう。別の寺院であれば、別の寺院であることを説明したら良いのです。--Bellcricket会話2019年12月17日 (火) 23:53 (UTC)[返信]
歴史的に同根とは言え、別の寺になってから400年以上が経ってるんですけどねぇ。--KAMUI会話2019年12月18日 (水) 12:30 (UTC)[返信]
それはそうですが、水戸の天徳寺として何か特筆すべき内容があればともかく、秋田の天徳寺とは別の寺だということを説明するのに、わざわざ別の記事を作ることもないと思いますよ。結局秋田の天徳寺の話にしかならないのですから。--Bellcricket会話2019年12月19日 (木) 04:46 (UTC)[返信]
改めて資料を当たり直しているのですが、記事にある「天徳寺が水戸から秋田へ移った際、水戸でも衣鉢を受け継ぐ寺があり」が、どうも微妙なんですよね。
東皐心越は水戸光圀の招きで水戸に来て没するまで天徳寺に住んでいたのですが、この際に光圀によって寺の建物が明国の寺院様式に改修されたという話があるようです。また、この論文には「東皐は後に徳川光圀の招請により天徳寺(現茨城県水戸市祇園寺)を開創し」という記述があります。これについては朝日日本歴史人物事典にも「天徳寺(のち祇園寺と改名)を開山し」と同様の内容がありました。元の天徳寺が秋田に移ったのは1602年ですが、光圀の招請に応えた東皐心越が水戸に移り住んだのは1688年で80年以上後です。水戸天徳寺について「1692年に晋山開堂」という情報も埼玉県秩父市にある寺のウェブサイトにありました。東皐心越は水戸で曹洞宗の一派である寿昌派の教えを広めていたそうなので、開山とか開堂ってのはこの話でしょう。其の辺りをうまくまとめれば「秋田の天徳寺の話だけ」にはならなくて済みそうにも思われます。--KAMUI会話2019年12月19日 (木) 10:16 (UTC)[返信]
改名には賛成、分割は保留します。水戸天徳寺に関してKAMUIさんが加筆していらっしゃいますが、創建以来の歴史的事績や、現在の寺にある意義などで、単独立項に値するだけ内容が充実するようでしたら分割も賛成します。
ちなみに水戸天徳寺の節を(無出典で)書いたのは私なのですが、参考にしたのは土井輝雄「羽州久保田の原風景 佐竹氏入部のころ」(ISBN 4-87020-198-4)に掲載されている、水戸天徳寺境内の看板の写真です(何故か本文では触れられていない)。2010年に現地へ行った時には建て替えられていましたが、書かれている文章は概ね同じで、ここに「水戸藩主光圀によって河和田伝舜院の跡に定められ」という一文があります。出典としては無効でしょうから、除去に異存はありません。--MWE会話2019年12月19日 (木) 10:33 (UTC)[返信]
現地看板からということは理解しました。ただ「伝舜院」が何なのか、ネット上ではまるで分らないのが・・・今の状況だと「河和田城にあった伝舜院という何かの跡に建てられた」としか書けない。あと、光圀が没したのが1701年なのに河和田村に移ったのが1712年という点から「光圀が移した」と書くと流石におかしいというのがあります。--KAMUI会話2019年12月19日 (木) 12:38 (UTC)[返信]
河和田の歴史に「伝舜院は、嘉吉3年(1443)時の河和田城主春秋幹安が父幹治の菩提を弔う為に建てました」とありますが、これも出典としてはいまいちですね……。時期については、光圀が移転を計画し没後に移転した、という推測もできますけど、推測止まりです。--MWE会話2019年12月20日 (金) 10:59 (UTC)[返信]
『水戸市史』を当たる時間が取れましたので、ちょっと加筆修正してみました。結果として秋田の寺の記述と若干のずれが生じていますし、それ以前の話として当該記事につけられている出典10個のうち、「水戸の天徳寺」についてのものが9個になってしまいましたけど。秋田の天徳寺に元々付けられている出典は「秋田での火災と移転」のみです。--KAMUI会話2019年12月22日 (日) 11:06 (UTC)[返信]

(報告)記事の改名を実施しました。「天徳寺」へのリンクについては可能な限り修正しましたが、適切な修正先が不明なものが6件あます。なお分割については反対1・保留1で同意がいただけませんでしたのでそのままとしてますが、正直言って適切な状態であるとは思われません。--KAMUI会話) 2019年12月25日 (水) 20:37 (UTC) 途中で送ってしまったので修正。--KAMUI会話2019年12月25日 (水) 20:40 (UTC)[返信]

(報告)曖昧さ回避の移動について対処されました。--KAMUI会話2019年12月29日 (日) 10:34 (UTC)[返信]