ノート:四神相応

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標準的な風水について[編集]

「標準的な風水」との記載がありすますが、標準いうのはどういったものなのでしょうか?風水のページを見ても風水の標準は記述されていないようですし、あるとしても中国の風水と日本の風水における標準は異なるはずで、時代による変化もあるはずです。「標準」があるのであれば、少なくともいつの時代のどこの国での標準なのかをお示し頂きたく思います。--たなしん 2009年5月17日 (日) 04:47 (UTC)[返信]


江戸の五色不動について[編集]

まぼろしの五色不動を参照して下さい。五色不動が江戸の頃からあったという説が綿密な取材の結果として否定されています。--北斗柄 2008年4月16日 (水) 04:27 (UTC)[返信]

四神=山川道澤にどうしてもしたい方がいらっしゃるようですが[編集]

ウィキペディアは「"検証可能な"事実を載せる場」ですから、不確実な情報を延々と載せ続けるのはやめにしませんか--北斗柄 2008年4月9日 (水) 16:41 (UTC)[返信]

以前、「単に削除したのでは、いずれまた加筆→削除が繰り返されるのではないでしょうか。」と指摘しましたが、その通りになっていますね。「後世に四神=山川道澤と見なされるようになった」、これは「事実」なのですから、そうした成立の背景を記述されないのであれば、注釈を付けて掲載するのも妥当なことではないでしょうか?--たなしん 2008年4月11日 (金) 10:51 (UTC)[返信]
では、以下の、
「四神=山川道澤」説の典拠となっているのは、『作庭記』である。『作庭記』は寝殿造を念頭においた庭園の作り方を述べた書物であり、理想の庭園の姿として「四神=山川道澤」説を記述する。そして四神としての山川道澤がない場合に、特定の種類の樹木を特定の本数植えることで「四神=山川道澤」の代用となることを説いている。
現在の日本で四神を「山川道澤」に対応させる解釈が一般的となったのは、平安京をモデルとして、青龍=鴨川、白虎=山陰道、朱雀=巨椋池(おぐらいけ)、玄武=船岡山の対応付けが比較的うまく行ったと考えられるようになってからである。
に対してどのような記述を付け加えると、たなしんさんの言われる「そうした成立の背景」になるのでしょうか?--北斗柄 2008年4月11日 (金) 15:54 (UTC)[返信]
記述が不足しているから書き込みが繰り返されるのではないでしょうか?どのような記述と言われても困りますが、具体的な事例、太宰府、江戸城、姫路城が全くないですよね。読んでいるひとが、「こういう説が流布しているが、史実はこうなんだな」と納得できる記述になっていない、ということではないでしょうか。--たなしん 2008年4月13日 (日) 06:04 (UTC)[返信]
あと、不確実な情報だから、と、全てを切り捨ててしまったら多くの読者は話を理解できないと思いますよ。北斗柄さんのように知識をお持ちの方ばかりではないのですから。多くの読者は自分の持つ不確実な情報を補完しようとウィキペディアを検索するはずですので、「通説→事実」の流れを示さないで、「事実」のみを示したのでは、求める回答にたどり着けないことになりませんか?以上、参考になりましたら幸いです。--たなしん 2008年4月13日 (日) 06:21 (UTC)[返信]
四神相応でかなり書き換えられていますね。まず、山川道澤はかなり深い理論ですよ。安直に否定できません。自分も昔は、中国・朝鮮の説明が真の四神相応かと思っていました。..実効性はありますし知ってます、ただそれでは四の意味もしくは種類と見分けはっ?という質問がでてしまうのですが。絵の四神と土地はかなり理を通しています。ネタはばらしたくないのですが・・・。否定的コメントを見るよりも、考える物の存在を列挙してくれたほうが見ているほうにはありがたいのですがいかがでしょうか?お互い否定的な文だと両方が頷きにくい気もします。日本は隠蔽されていたので、出ていないだけで知っている人は知っている気がしますよ。 --218.185.144.50 2008年5月10日 (土) 16:58 (UTC)[返信]
そういう意見に対してはウィキペディアは「"検証可能な"事実を載せる場」だというのを繰り返すしかないですね。--北斗柄 2008年5月11日 (日) 03:01 (UTC)[返信]
四神相応=4つの山、=山川道澤のどちらの意見も、四神相応は、山ですとか道ですとかいう根拠は乏しいと思います。検証可能かという点でも、推測の域を脱していないようにお見受けいたします。四つあるというだけを、たまたま四神に結び付けていると感じてしまうのですが。過去に変えられた事実でこの時期に壊されたと考えるのは共感しますが、これも結局は推測になると思います。今のところ有力ではないかという書き方にしかできないように思えます。また、中国でも三合、玄空などいろいろな風水の派閥があって、意見は分かれると思いますが。ただの感想で申し訳ないですが。また、中国との差異は、日本の封建社会から考えて、隠語だったというケースも考えられると思います。以上です。 --218.185.144.50 --218.231.76.136 2008年5月14日 (水) 14:22 (UTC)[返信]
中国朝鮮の四神相応は背山臨水を砂で守るで、葬経の頃から変わってないですけどね。--北斗柄 2008年5月15日 (木) 00:20 (UTC)[返信]
まぁあれですね、北斗柄さんは、いろいろとお詳しいのですね。あえて端折り教えてくれているのかもしれませんが、体験談というよりも書いてあることを元にされているように感じます。北斗柄さんは、歴史家というよりも風水職の方とお見受けするのですが、たとえば破壊された巨椋池を元に戻せば、京都の景気とかよくなるのですか?文面からは北斗柄さんが四神≠山川道澤だって断言したい気持ちがよく伝わってきます。昔に志半ばで終わった明堂レベルの豪族たちの遺跡は地方に多いです地元の東海地方にも多いですよ・・・。中国(香港)の風水なんて眉唾物から似たものの寄せ集めまでいろいろあるので、それが世界の風水事情だと思いますが、日本だけが批評的に見られている気がします...正しいと言ってしまうと他が間違いであることを強調しているように見えてしまい、言い切る場合にはそのつど典拠がないと独りよがりに読めてしまう気がします。お気を悪くしたら申し訳ないのですが、ただの感想です。218.231.76.136--218.231.76.136 2008年5月17日 (土) 13:38 (UTC)[返信]

インデントが深くなりすぎのようなので元にもどしますけど、ここでは日本における四神相応がどのようなものであったかについて議論する場ではないのですか?これまでの編集過程を通じて、中世から近世にかけての四神相応の理解は様々だったことが、検証可能な形ではっきりしてきたと思います。そしてそれは山川道沢を四神相応とする理解が支配的ではなかったことでもあるわけです。そこについては同意頂けますか?>218.231.76.136 さん

以下余談ですけど風水という言葉が、旅行の方位をみる術に対してまで拡張して使用されているのは、日本においてのみです。そういった意味で、日本では風水、四神相応といった言葉が激しく乱用されています。占いに関わっている以上、そういう乱用は蟷螂の斧であってもなんとかしたいとは考えていますね。--北斗柄 2008年5月18日 (日) 00:12 (UTC)[返信]

ご回答感謝いたします北斗柄さん。正統派風水を載せていただけるのは、wikiの利用者としても有益なことと思います。四神相応の「理解は様々だったこと」というのが北斗柄さんのご見解だとして、日本と中国韓国も、同じセオリがあったというのも一理と説いてもらっているわけですよね..この説明が読み取りづらかったです。..散々「山川道澤」を書き込まれていたわけですね、御意、納得しました。日本は風水商売がマルチ商法のようにも流れていますから都市設計の考えとは雲泥の差がありますね。確かに術は説明しにくいものですからね。失礼しました、今後もがんばってください。--218.231.76.136 2008年5月18日 (日) 13:57 (UTC)[返信]

方位と四季の対応ですが[編集]

五行思想で、ほとんど出尽くしている感があります。 そちらに移動して頂けますか。--北斗柄 2008年3月12日 (水) 14:22 (UTC)[返信]

日本における四神相応の例ですが[編集]

項目全体を削除しませんか。「つまり、多少強引であっても四神相応に当てはめられそうなものがあれば、それをもって四神相応の地と見立てたに過ぎないのである。」というようなものが多数派となっているようなものを例として記述しておくことに意義を感じません。--北斗柄 2008年2月28日 (木) 01:04 (UTC)[返信]

下記の「大宰府・広島城の表からの削除について」をお読みいただいてもわかると思いますが、それを言い始めれば平安京でさえ削除しなくてはなりまんよ。--たなしん 2008年2月28日 (木) 12:03 (UTC)[返信]

だからまるっと削除してしまいましょうよ。平安京も含めて日本の例の項目を。--北斗柄 2008年2月28日 (木) 13:06 (UTC)[返信]

疑わしい記述だから削除したいという気持ちはわかります。しかし、そうすると、「日本」の項目も大幅に手を入れなければバランスがとれなくなります。また、例に挙げられた項目が近代になって四神相応と見なされるようになった、ということには事実ですね。従って、日本のおける四神相応成立の背景を加えることで、後世にこういう見方がされるようになった、という例になるかなと思い私も記述を加えてみたわけです。ただ、これに代わる四神相応と見なされるようになった例が成立していった背景を記述されるのであれば、削除することに異論はありません。それがなく単に削除したのでは、いずれまた加筆→削除が繰り返されるのではないでしょうか。実際、履歴にはその跡がありますし…そうした意味でこの記述に意義がないとは思いませんが、優れた記述ではなのも確かだと思います。以上、参考になれば幸いです。--たなしん 2008年2月28日 (木) 14:48 (UTC)[返信]

とりあえず、日本の項目を書き直しました。平安京~江戸城の小項目もばっさり切りたいところですね。--北斗柄 2008年2月29日 (金) 02:01 (UTC)[返信]

符牒としての四神相応について[編集]

古代中国における風水の適応対象として、中国大陸全体を対象としている所でアウトでしょう。 春秋戦国時代においても「中華」の範囲が実は不定であったという説さえあるわけですから。 削除するべきだと思いますね。(北斗柄)

参考↓
『中国古代の予言書』(講談社現代新書,2000年)ISBN 4061495089

日本式風水とか日本風水といった呼称について[編集]

使用するべきではないと思います。ただでさえ「風水」という用語が乱用されているところに更に混乱を付け加える必要はないでしょう。(北斗柄)

大宰府・広島城の表からの削除について[編集]

(大宰府について) 本文でも触れたように、「四神相応」の地を「山川道澤」にあてはめる解釈は平安時代後期になって登場するものであり、奈良時代には別の解釈が存在していました。7世紀にその萌芽を持つ大宰府を「山川道澤」にあてはめることは歴史学的に見てナンセンスな行為です。 (広島城について) 広島城の北には「阿武山」などありません(萩城と混同?)し、広島城より何百年も前から存在する厳島神社を裏鬼門の押さえとすることもおかしな話ですので、削除しました。202.221.5.234 2006年2月16日 (木) 13:19 (UTC)[返信]


大宰府の「四神相応」については、同市のオフィシャルホームページにも紹介されている通説です。
現在の「四神相応」解釈が平安時代後期のこととすると、平安京も削除の対象となります。
解釈が平安時代後期のこととする根拠も希薄でありますので、大宰府についての削除は不適切です。


>大宰府の「四神相応」については、同市のオフィシャルホームページにも紹介されている通説です。 太宰府市のHPにはそれらしい記事はありませんでした。できましたらURLをお示し下さい。

>現在の「四神相応」解釈が平安時代後期のこととすると、平安京も削除の対象となります。 平安京の対応関係が最も知られているにもかかわらず,後付であることを説明するため,あえて残しておいたつもりだったのですが・・・。

>解釈が平安時代後期のこととする根拠も希薄でありますので、・・・ この件に関する論文を読むなり,調べものをしたことはおありですか?平安京が「四神相応」であるという説自体は平安時代から幾度と無く説かれていますが,その内容,つまり,「平安京周囲のどのような地形が四神にあたるのか」という具体的な記述は一切ありません。一方,平安時代後期の『作庭記』や鎌倉時代の『ホキ(実際は漢字ですが表記できません)内伝』では,住宅用の風水の観点から「四神」がどのような地形(山川道澤)であるのかを説きますが,平安京についての記述はありません。平安京周囲の地形に具体的にあてはめはじめるのは江戸時代になってからで,本文でも触れていたとおり,一番有名な「船岡山,鴨川,山陰道,巨椋池」が出そろうのは明治になってからのことです。諸説があるのは,それだけ自由な解釈がなされるということの裏返しなわけです。 歴史学の方法論で導き出される答えはここまでです。例え現在通説のように流布している説だとしても,それが当時とイコールであるとは限りません。歴史学の根幹は時間の経過による変化を明らかにすることにあります。それを無視した主張は,どんなに面白いものであっても歴史事象をかたる上でまったく意味がないばかりか,害悪そのものであるといえます。202.221.5.234 2006年2月22日 (水) 12:43 (UTC)[返信]


本文に記したように初期の「四神相応」については都市の形態そのものを指したもののようです。
都市の形態そのものを「四神相応」としたとしても大宰府はこの例に当てはまります。
この記事は「風水」や「四神相応」を説明する為のものであって、歴史についてのものではありません。
「四神相応」の起源については本文に記せば良いことであって、それが事例削除の理由にはなりません。
通説つまり最も代表的な例を削除したのでは記事になりません。
解釈を江戸・明治にまで持ってくると、全ての例が当てはまらなくなりこの記事「四神相応」全てを否定することになります。
大宰府の「四神相応」が「害悪」で平安京についてはそうでないとする理由はなんですか?
最近まで太宰府市のHP
http://www.city.dazaifu.fukuoka.jp/bunka_t/rekitop.jsp
に説明がありましたが削除されているようですね

>本文に記したように初期の「四神相応」については都市の形態そのものを指したもののようです。

→そのソースをお示し下さい。

>都市の形態そのものを「四神相応」としたとしても大宰府はこの例に当てはまります。

→大宰府に条坊が備わるのは10世紀になってからです。したがって「四神相応」として建設されたものではありません。仮に都市の形態を「四神相応」とみる説にたっても「後付」となります。

>この記事は「風水」や「四神相応」を説明する為のものであって、歴史についてのものではありません。

→「大宰府は四神相応の土地を選んで建設された」という誤った理解を誘うような記述が許されると?項目によってはその理解を助ける説明として歴史的経緯を述べることは重要なことだと思いますが?

>「四神相応」の起源については本文に記せば良いことであって、それが事例削除の理由にはなりません。

→一般には伝統的なものと理解されている項目の例として現代の「後付」がふさわしいものとお考えですか?

>通説つまり最も代表的な例を削除したのでは記事になりません。

→たとえ「通説」であっても根拠が薄弱なのですから「事典」としての良識を示すべきでしょう。もっとも個人的には「通説」と言われるのにも非常に違和感があります。検索エンジンで「大宰府 四神相応」で引っかかるのは出所が同じと思われるものばかりなのですが。

>解釈を江戸・明治にまで持ってくると、全ての例が当てはまらなくなりこの記事「四神相応」全てを否定することになります。

→よく記事の内容を読んでください。全否定などしていません。現在一般に知られている「四神相応」の内容が伝統的なものではないということも記述していますが,平城京の例をあげているように「四神相応」という選地思想の存在は前提として認めています。

>大宰府の「四神相応」が「害悪」で平安京についてはそうでないとする理由はなんですか?

→平安京の場合,平安時代から「四神相応」であるとの認識があり,それに対してより具体的な「後付」がされていくという歴史的経緯をたどっています。その過程はそれはそれで歴史的事象なわけです。また「四神相応」であろうとなかろうと「平安京」という古代都市の評価が急激に上昇することも下降することもありません。さらに「山川道澤に合致するから平安京は王都なのだ」などという,後代の基準で過去の事象を位置づけようとする本末転倒の主張は皆無です。 ところが,大宰府の場合,平安京のような歴史的経緯が無く現代になって突然唱えられはじめたこと,大宰府に対する近年の歴史学・考古学の研究成果を無視した内容であること,「大宰府は四神相応の地だから王都なのだ」といった本末転倒な思考によって大宰府の歴史的評価を捏造しようとする言説をする人たちがみられること,といったあたりが「害悪」とした理由です。

で,あなたは大宰府(条坊域含む)が「四神相応」に基づいて建設されたという根拠を示すことができるのですか?202.221.5.234 2006年3月6日 (月) 10:34 (UTC)[返信]

>>本文に記したように初期の「四神相応」については都市の形態そのものを指したもののようです。
>→そのソースをお示し下さい。
風水のHPです。URLは忘れました。自分で検索して下さい。
>>都市の形態そのものを「四神相応」としたとしても大宰府はこの例に当てはまります。
>→大宰府に条坊が備わるのは10世紀になってからです。したがって「四神相応」として建設されたものではありません。仮に都市の形態を「四神相応」とみる説にたっても「後付」となります。
10世紀というのは確定したことではありません。
>>この記事は「風水」や「四神相応」を説明する為のものであって、歴史についてのものではありません。
>→「大宰府は四神相応の土地を選んで建設された」という誤った理解を誘うような記述が許されると?項目によってはその理解を助ける説明として歴史的経緯を述べることは重要なことだと思いますが?
「誤った理解」というのは、思い込みでは?
>>「四神相応」の起源については本文に記せば良いことであって、それが事例削除の理由にはなりません。
>→一般には伝統的なものと理解されている項目の例として現代の「後付」がふさわしいものとお考えですか?
「後付」は、太宰府でなく平安京ですね!
>>通説つまり最も代表的な例を削除したのでは記事になりません。
>→たとえ「通説」であっても根拠が薄弱なのですから「事典」としての良識を示すべきでしょう。もっとも個人的には「通説」と言われるのにも非常に違和感があります。検索エンジンで「大宰府 四神相応」で引っかかるのは出所が同じと思われるものばかりなのですが。
以前は太宰府市のHPにもありました。
>>大宰府の「四神相応」が「害悪」で平安京についてはそうでないとする理由はなんですか?
>→「四神相応」であろうとなかろうと「平安京」という古代都市の評価が急激に上昇することも下降することもありません。「大宰府は四神相応の地だから王都なのだ」といった本末転倒な思考によって大宰府の歴史的評価を捏造しようとする言説をする人たちがみられること,といったあたりが「害悪」とした理由です。
要するに自分の支持する学説に都合の悪い情報は削除したいということですね。
>で,あなたは大宰府(条坊域含む)が「四神相応」に基づいて建設されたという根拠を示すことができるのですか?
竈門山旧記
>これについては平城京周囲の地形から、中国・朝鮮と同様のものであったとの説が有力である。
そういった地形は見られないので削除しました。
>政庁の南正面に丘陵があり南方に向けてひろがる地形ではない
多少の起伏はありますが、問題となるほどの丘陵は無いので削除しました。


>風水のHPです。URLは忘れました。自分で検索して下さい。

見つかりませんが。

>10世紀というのは確定したことではありません。

発掘調査により、8世紀後半に部分的に施行され、10世紀段階になって広範囲なものになるという事実が判明しています。

>「誤った理解」というのは、思い込みでは?

歴史学的な手法では大宰府の地が「四神相応」の思想に基づいて建設されたものといえるだけの根拠はありません。それを覆すような具体的な史料・資料を根拠として提示もしない主張はあやまったものであると言わざるを得ません。

>「後付」は、太宰府でなく平安京ですね!

平安京が後付であることは認めるのですね?であるならば,書き込みの当初,平安京と大宰府とが同列に語られていたので大宰府も後付となります。

>以前は太宰府市のHPにもありました。

そのHPに記載された解釈の出所も同じ疑いが高いということです。

>要するに自分の支持する学説に都合の悪い情報は削除したいということですね。

違います。歴史学的にまっとうな手法が用いられ、充分に納得できるような根拠の提示があれば、いつでも認めますよ。

>竈門山旧記

これのどこに「大宰府が四神相応の地を選んで建設された」と記述してあるのでしょうか?いっておきますが「鬼門」というのは「四神相応」とは本来別の思想です。勝手に根拠をすり替えないでください。

なお、『竈門山旧記』には延宝8年(1680)の内容が含まれていますから、成立は遡っても17世紀の後半です。ここで問題となっている大宰府の成立時期からは少なくとも1000年近くの時間差があり、『竈門山旧記』の内容が古代の事柄を正確に伝えていると無批判に考えることはできません。「時間差」を考慮することは歴史を語る上での基本中の基本です。また、この書物が神社の歴史を語る=縁起である以上、自らを権威付けするための誇張があると考えるべきものです。江戸時代であれば、「鬼門」の思想は広く知られていますから、そうした意味でも、『竈門山旧記』の内容を100%信用することはできません。「史料・資料の性格」を考慮することも歴史を語る上での基本中の基本です。

>そういった地形は見られないので削除しました。

そうですか?京の背後には平城山丘陵が広がっており、東には春日山から続く山々が、西には奈良盆地と富雄の谷を隔てる丘陵が北から南へと伸びています。宮の東西には佐保川と秋篠川が流れており、それらは南方で他の河川と合流し、湿地帯を形成しています。こうした地形は、大陸の「四神相応」の地形によく合致しているといえますし、「四神相応」に似た概念である「局」の地形にもよく合致しています。

>多少の起伏はありますが、問題となるほどの丘陵は無いので削除しました。

「山川道澤」の概念が平安後期を遡ることを立証できない以上、どう足掻いても妄説ですよ。

これ以上、歴史の捏造はやめていただきたい。202.221.5.234

京都の四神相応についてですが[編集]

京都の四神相応についてですが、朱雀に関しては水朱雀が鴨川・桂川、山朱雀が甘南備山と言う事みたいですので 現代でも四神相応は崩れて無いのではないでしょうか。

元ネタは学研の「風水の本」です。一般向けの本ですが、ちゃんと中国の正しい風水理論をベースにしてあります。 --124.84.91.73 2008年7月6日 (日) 05:38 (UTC)[返信]

そんなに正しい風水理論とも思えませんね。背山臨水を砂で守るというのが本来の四神相応です。そして臨水つまり前方の水を朱雀としますから、鴨川・桂川では配置的にも変だし、規模的にも弱すぎでしょう。
ただ北の丹沢山地を玄武、東の左大文字山を青龍砂、西の嵐山を白虎砂、船岡山を玄武を伝ってやってくる山龍が目指す星峰という配置は壊れていないので、穴は今でも同じ場所に存在するでしょう。もっとも朱雀がないので穴があっても役に立たないのは間違いないです。--北斗柄 2008年7月6日 (日) 12:04 (UTC)[返信]


いえ朱雀も基本は砂であるはずです。あくまで「四神砂」が中国風水の基本で、それとは別に気の流れを止め誘導するものとして得水(川)も必要となってます。ただ朱雀に限れば砂でなくとも水でもよいと言う事です(その場合湖水が一番いいそうです)。
ですから京都の朱雀は案山である甘南備山と朝山である吉野山系がメインで、サブで水朱雀として巨椋池もあったということだったと思います。甘南備山が朱雀だと四神砂の中心を結んだ交点に内裏がくるきれいな十道真結になりますが、池のほうがメインだとすると東によってるので真結にはなりません。有名な黄永融氏の論文でもそうなっています。
ソウルの場合でも朱雀は案山である南山の事で、漢江は水朱雀のサブということです。
ですから京都の場合、池がなくなっても水朱雀が川だけになりパワーダウンしただけで、メインの山朱雀は変わってないので今でも理想的な風水都市だと思います。--124.84.91.73 2008年7月6日 (日) 16:10 (UTC)[返信]
>いえ朱雀も基本は砂であるはずです。
そういう話は「風水講義」でも見なかったですね。

三浦國雄,「風水講義」,文藝春秋(2006/01),ISBN 4166604880

放送大学の「東・東南アジアの住文化」の講義でも、背山臨水を風水の基本としていましたし。水が無くなれば龍は枯れてしまうのですよ。風水という言葉自体が、風=地形と水を同列にあつかっているではないですか。--北斗柄 2008年7月7日 (月) 07:15 (UTC)[返信]


「風水講義」p173
砂の中でも最も重視されるのが穴に近い周囲の山である。これを四つに分節し四神に見立てて「四神砂」と呼ぶ。・・・おおむね朱雀は案山と朝山、場合によっては前方の水・・・
どう読んでも朱雀は砂が基本でしょう。得水(川等)は四神砂とは別個に必要なんですよ。だだ朱雀は水と方向が重なるので水だけでも代用できるということでしょう。--124.84.91.73 2008年7月7日 (月) 09:19 (UTC)[返信]

インデントをもどします。『風水講義』には豊富に図が引用されていますが、その図には朱雀砂は多分一つも出てこないでしょう。そして175頁には以下の記述があります。

そして前方の池沢には水が涸れている(朱雀悲哭)。

どう読んでも、朱雀は水ですよね。


朱雀に限っては水だけでもいいと何度も言ってますが。その場合は水朱雀のみということでしょう。反例にはなりません。
では先にあげたp173の引用をどう解釈なさるんですか?
またソウルに関して、p228「四神砂がそろっており(玄武=北岳山、朱雀=南山、青龍=駱駝山、白虎=仁旺山)、南には気の漏洩を防ぐバリアとしての漢江が大きくたわみながら・・・」となってますが、漢江を差し置いて南山を朱雀にしてるのはどう説明なさるんですか?
山朱雀の図に関してはp125、155、179、181にあります。--124.84.91.73 2008年7月8日 (火) 04:16 (UTC)[返信]
>朱雀に限っては水だけでもいいと何度も言ってますが。
つまりは124.84.91.73さんも、朱雀に要求されるのは水としての働きであると認めるわけですね。私も朱雀は水であると繰り返しているわけです。124.84.91.73さんの言っている山朱雀は、案山、朝山というべきもので、穴の配置には影響を及ぼさないのは、引用図からも明らかでしょう。私は穴の位置は変わらないだろうけど、水が枯れている以上、穴としての役には立たない=京都の四神は壊されたと言っているわけです。
>南には気の漏洩を防ぐバリアとしての漢江が大きくたわみながら・・・
ソウルについての記述でも水の働きを重視していて、案山の南山では気の漏洩を防ぐことができていないわけですよね。三浦先生はp173の記述に引っ張られて、たまに変なことを言っているのだと思いますね。山朱雀の図といっても、白虎砂、青龍砂の語はあっても朱雀砂は出てきてないですよね。--北斗柄 2008年7月8日 (火) 08:23 (UTC)[返信]

本記事の題名異説[編集]

本記事の題名は『四神相応』となっていますが、風水に関わる幾つかの文献には、"四神に対応する望ましい地勢"と云う意味で、『四神応勝(の地)』と云う文言が使われています。どちらかと云うとこちらの方がより中華的な文言と云えるので、本記事の題名として、『四神応勝(しじんおうしょう)』を用いた方が宜しいのではないでしょうか?若しくは、ページ記事自体を移動して、『四神相応』と云う日本的な見出しは、風水的な『四神応勝』にリダイレクトする形に直した方が宜しいと思いますが、皆様の忌憚無いご意見を求めます。--ちいさいわんこ 2010年6月5日 (土) 00:37 (UTC) b[返信]

問題は『四神応勝(の地)』が一般的な用語ではないことですね。それとここは日本語版のWikipediaですから、『四神応勝』は中国語版にまかせてしまうのもありなのでは--北斗柄 2010年6月6日 (日) 04:53 (UTC)[返信]