ノート:和田惟長

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惟長が重傷を負って1573年に死去したという説は当時の宣教師の記録が根拠で、それを元に執筆された本や小説も多く存在しますが、実はその後に奇跡的に蘇生に成功して、江戸時代まで存命した、というのが一般的な説だと思います。--Kangoshiyouichi 2009年7月14日 (火) 14:14 (UTC)[返信]

項目を修正したいので、「江戸時代まで存命した」という出典はどんなものがあるのかできれば教えてください。(もしくは面倒でしょうが加筆修正をお願いします)--ポテンシャル0 2009年7月23日 (木) 22:37 (UTC)[返信]
まず、そもそも現状の記事が、出典が皆無な状態ですので、それの改善が先ではないですかね。谷口克広氏の『信長と消えた家臣達』でも参照してみたらどうでしょうか。--Kangoshiyouichi 2009年8月19日 (水) 14:46 (UTC)[返信]

フロイス書簡の惟長死亡の記録について、例えば谷口克弘氏は他人の葬式を見間違えたのではないか、という見解を述べています。谷口氏の見解だけではご不満だというなら、こちらも調べてみることにしますが。--Kangoshiyouichi 2009年9月9日 (水) 18:57 (UTC)[返信]

いまのところ、フロイス書簡や兼見卿記などの「死んだ」とする説と、谷口氏の「存命していたのでは?」という説が「二説ある」という段階だと思いますので、そう編集しなおしました。(両論併記の編集に見えなかったようですので、その辺については自分の編集が不足だったと思うので反省すると共に編集の修正に感謝します。)別に生存説を否定しているわけではありません。しかし、「江戸時代まで存命したとするのが一般的」とまでする論拠がわからないもので。確実に存命していたとする根拠や、学会などで存命説の方が有力視されているとかいう論拠があるなら、そう編集し直してください。自分でも調べてみますが・・・--ポテンシャル0 2009年9月10日 (木) 02:06 (UTC)[返信]
とりあえず手元にあった「戦国大名城郭辞典」(西ヶ谷恭広著、1999年刊)を読んでみたところ、和田氏の項には「傷がもとで死んだと言われるが、一説には、命を取り止めて秀吉に仕えたともいわれる」とありました。やはり「二説論」のようです。どちらにしろ城を追われた時点で没落してしまったので、その生死も含めて事後の様子はよくわからない、推測せざるを得ない、というのが現状だと思うのですが、どうでしょうか。谷口氏も生存説の根拠の1つとして挙げている「寛政重修諸家譜」は信憑性が薄い、と述べていますし、論拠となっているのは事実上、和田氏の発給文書だけですよね。(こっからは素人の完全な推測ですが、和田姓自体は残っていただろうし、子孫などの同名の別人という可能性もあるわけで)なので、自分は谷口氏の主張も「死んでいたとされるが、生きていた可能性も否定できない」という「二説論」だと思うのですが・・・自分でも引き続き時間があれば調べてみますが、「存命したとするのが一般的」と「二説ある」ではニュアンスが違ってくると思うので、その辺のソースがあったら補記お願いします。--ポテンシャル0 2009年9月11日 (金) 23:08 (UTC)[返信]

とりあえず、没年は確定事項とは思えないので、?を付けておきます。--ポテンシャル0 2009年10月3日 (土) 14:49 (UTC)[返信]