ノート:和田喜八郎

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現在、和田喜八郎の遺品のうち、いわゆる「古文書」を保管しているのは古田武彦氏ではなく竹田侑子氏です。--原田実 2010年5月3日 (月) 23:58 (UTC)[返信]

ちなみに古田・竹田共編著としてクレジットされている『東日流[内・外]三郡誌 −ついに出現、幻の寛政原本!−』にも、保管者は竹田氏の方であることが明記されています。--原田実 2010年5月4日 (火) 12:35 (UTC)[返信]

わかりました。また誰か編集してください。なお、一部は古田氏に委託されています。--日野智貴 2010年5月5日 (水) 04:57 (UTC)[返信]

なお、根拠が明らかでない部分については「要出典」のタグを張り付けています。とくにwikipedeaの関連するページに書かれていない部分については速やかに出典を明記してください。--日野智貴 2010年5月5日 (水) 05:00 (UTC)[返信]

張り付けた参考文献が提示できません。システムにくわしい方による修正お願いいたします。--原田実 2010年5月8日 (土) 06:56 (UTC)[返信]

Reflist(「脚注をここに表示しますよ」という意味のタグ)が」無かったためです。付けておきました。--211.124.131.177 2010年5月8日 (土) 07:58 (UTC)[返信]

ありがとうございます。しかし、自分の知らないことや気にいらないことに片っ端から要出典を入れるだけという人は御気楽でいいですね。答える側はほぼ20年分の記録をひっくり返さなければならないわけで。--原田実 2010年5月8日 (土) 08:13 (UTC)[返信]

また、5月5日付けでたしかに脚注を入れたはずのところがまた要出典になっているので、履歴を確認したら、その脚注をわざわざ削除して要出典を入れなおしているわけでこれはもう小姑のイビリも同然ですね。--原田実 2010年5月8日 (土) 08:52 (UTC)[返信]

原田氏の出典は出典になっていなかった。代替今も一部おかしいところあり。--日野智貴 2010年5月9日 (日) 08:16 (UTC)[返信]

古田武彦氏の東北王朝説提唱は和田喜八郎との出会い以降です。現在の本文ではその前後関係が明確に示されています。--原田実 2010年6月7日 (月) 11:48 (UTC)[返信]

東北王朝の存在は東日流外三郡誌以前から推測していたようです。

それ以前に九州王朝説ではなく邪馬一国論の文脈の中で出ている文を九州王朝と関係あると偽り引用するのは出典明記の原則に反しています。『真実の東北王朝』長脛彦と邪馬台国問題

あといつまでブロックしているのでしょうか?--日野智貴 2010年6月13日 (日) 06:59 (UTC)[返信]


『真実の東北王朝』長脛彦と邪馬台国問題 リンク先の本文でも、古田氏自身、和田家文書にズバリ出てくるのは「九州王朝」論の真髄だと明記していますよ。邪馬一国論の文脈は、和田家文書と自説の食い違いについて言い訳するために長々と述べているだけです(以下引用)。

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 「磐井王は築紫の邪馬壹之系なり」  この一節を見たときの、わたしの驚き。わたしの「九州王朝」のテーマが、ここにすでに語られている。これは、孝季の「自作文」ではなく、神社所蔵文書などからの「写し」だったようだけれど、知己を見た思いだった。少なくとも、三~六世紀を一貫する間の「九州王朝」論の真髄が、ズバリ語られていたのである。


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--原田実 2010年6月21日 (月) 11:14 (UTC)[返信]

木を見て森を見ないとは。(以下引用・一部略)

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もう一つ、重大な発見があった。  いつも頭をはなれなかった。それはわたしには、一つの疑問があった。「邪馬壱国と邪馬台国」だ。  それは、わたしにとって年来のテーマ、得意のテーマだった。 ただし、それは中国の史書のこと、『三国志』(「邪馬壹国」)と『後漢書』(「邪馬臺国」)の問題だった。 今の問題は、『東日流外三郡誌』ないし『東日流六郡誌』の中のことである。 そこには、  邪馬壹国 の表記が出てきていた。  江戸時代の松下見林以来、みんな、  邪馬臺国 を使ってきた。その「常(当)用漢字」版が、周知の、  邪馬台国 だった。  ところが、昨年(昭和六十三年)十月、二回目に当地(藤崎)に来た。朝日トラベルの古代史ツアーだった。 藤本光幸さんのお宅に、和田喜八郎さんは幾多の文書を運んできて下さった。モーニング姿は、きりりときまっていた。   「磐井王は築紫の邪馬壹之系なり」  この一節を見たときの、わたしの驚き。わたしの「九州王朝」のテーマが、ここにすでに語られている。  その他にも、「邪馬壹国」はしばしば出現する。たとえば、 「(甘露)辛未四年〈前五〇。前漢〉、築紫邪(耶か)馬壹(壱か)国主卑奴呼七世、新羅を辺境一帯、広く寇す」 (『東日流六郡誌大要』二の巻、「改元支那年号日本歴、第二」。津軽書房刊『東日流六郡誌絵巻、全』一一九ぺージ。同書一〇六ぺージに写真あり)。  わたしも、写真に撮ってきていた。あとで、写真を熟視していて、気がついた。 「甘露」は、漢・魏・呉・前秦で用いられているけれど、ここは行文と干支から、前漢代。前五〇年だ。 ここでも「邪(耶)馬壹国」が使われているのである。 日本の古代史では「一異説」としか見られない(あるいは「無視しされることの多い)「邪馬壹国」、それは『東日流外六誌』では、堂々と「市民権」をもっていたのだった。

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(古田氏の研究史を振り返っていた部分は省略)

メインは邪馬一国です。どうみてもそうとしか考えられない。--日野智貴 2010年6月22日 (火) 07:04 (UTC)[返信]

出典明記の問題について新たな指摘もないまま議論が停滞しているようなのでいったんテンプレートを外しました。--原田実 2010年6月28日 (月) 08:43 (UTC)[返信]


提案--このページに和田家文書偽書事件和田家文書の記事を移動加筆して、東日流外三郡誌和田喜八郎の二つで整理しても良いのではないでしょうか。今のままではやはりいたずらに東日流関連の項目が多すぎると思います。ノート:東日流外三郡誌での議論の経過は承知していますので、「直ちに」ということは難しいかもしれませんが、今後の課題として提起してみたいと思います。--61.197.130.53 2010年7月3日 (土) 12:10 (UTC)[返信]

61.197.130.53 様、和田家文書偽書事件の方は項目名そのものが日本語としておかしいので存続させる必要はないでしょうが、和田家文書については曖昧さ回避のページなので一応は残す必要はあるかと思います。むしろ、そこからリンクしている和田家文書 (和田喜八郎)を整理の対象にして、和田家文書本文の「和田家文書(和田喜八郎)」から東日流外三郡誌和田喜八郎にリダイレクトすればいいのではないかと考える次第です。もちろんご指摘の通り、あくまで今後の課題に、という話ではありますが。--原田実 2010年7月8日 (木) 09:36 (UTC)[返信]

原田さん。どうもすみません。わたしの書き方が曖昧でした。基本的には同じ考えです。“和田家文書の記事を移動加筆して”の部分を『和田家文書(和田喜八郎)の記事を移動加筆して』と書くべきでした。--61.197.130.53 2010年7月10日 (土) 08:53 (UTC)[返信]