ノート:南京の基督

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三好行雄の解説はあくまで彼の主観に過ぎず中立性を欠いているので優先順位は下げるべきである。 三島は本作品の皮肉さ(シニシズム)をもって「いかにも芥川らしい」と言っている以上、「芥川は本来もっとナイーブであるはずだ」という解釈は矛盾している。 --Stead X会話2014年10月16日 (木) 16:57 (UTC)[返信]

Stead Xさん、こんにちは、はじめまして。『秦淮の夜』の件、気がつかなかったので加筆どうもありがとうございます。
『南京の基督』を「芥川的な短篇」で「シニシズム」があることを三島由紀夫はもちろん言及してはいますが、よく読んでいただければ解るように、三島は、そのこと(シニシズム)が芥川の「本質的なものではない」という意味で、「作者の本来のものではない感じを与へる。つまり完全にナイーヴィテが欠けてゐる。」と言っているのです。「芥川的」ということと「芥川の本質」は「別個のもの」なので矛盾はしていないのです。これは三島が他の芥川作品評の多くで一貫して言っていることであり、三島は芥川の本質を「皮肉も冷笑の似合わない、無垢、ナイーブ」と見ています。例えば、『舞踏会』でも、三島は、「芥川は本質的にワットオ的な才能だつたのだと思ふ。時代と場所をまちがへて生れてきたこのワットオには、本当のところ皮肉も冷笑も不似合だつたのに、皮肉と冷笑の仮面をつけなければ世を渡れなかつた。」と解説しています。
それから三好の解説については、芥川自身が手紙の中で、梅毒の症状が一時的に小康状態になって治ったかに見える時期があることに言及しているので、特に三好の解釈は中立性を欠いているわけではなく、芥川の手紙の内容から読み取っているものです。
あと順番は、優先順位で並べだわけではなくて、まず作品の構成や主題に関わるものから先に書くのが当然だと私は思っていますので、芥川本人が言及した依拠や、主題や構成に関わるものを先にして、話の流れで繋げていっただけですので、上に書かれているから優先的という意味ではありません。でもStead Xさんが三好評を上にするのが嫌だというなら、特に下でも構いませんので、順番は変更しないで整理しておきます。--みしまるもも会話2014年10月17日 (金) 03:49 (UTC)[返信]