ノート:北条氏綱

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後年、江戸幕府の旗本となる小笠原長房の先祖である元続(元継)は小田原北条氏に寄寓していたそうです。 ’氏綱の甥’故に寄寓していたそうなので元続の祖父元長が早雲の舅では無いでしょうか。 同じ礼法家の京都小笠原氏分家と伊勢氏分家の婚姻はあり得ると思うのですが。--以上の署名のないコメントは、220.105.157.174会話)さんが 2005年5月24日 (火) 05:38 (UTC) に投稿したものです(ジャムリンによる付記)。[返信]


氏綱は若い氏康の器量を心配して?[編集]

司馬遼太郎著「箱根の坂」中に、

氏綱はよほど子の氏康の人物の出来のよさに感じ入っていたらしく、 「其方儀、万事我等より生れ勝り給いぬ」 (そのほうぎ、ばんじわれらよりうまれまさりたまいぬ) と書いている。

とあります。(講談社文庫、第一刷、下巻、p358~p359)

他の文献には、氏康を不肖の子とする氏綱の言があるのでしょうか。--以上の署名のないコメントは、Takatajima会話投稿記録)さんが 2006年11月6日 (月) 16:41 (UTC) に投稿したものです(ジャムリンによる付記)。[返信]


また、主家と主君の血統が分離したのは江戸期と考えます。そのため、婿養子で一族扱いとしたとは言え赤の他人に家を譲る事になる「一時は氏康を廃嫡して綱成を後継者にしようとまで考えたとされている」は無理があるのでは無いでしょうか。戦国期で、さほど不出来ではない実子や一族の者がいる状態で、一族外の人物を嗣子として選んだ事例は多々あるのでしょうか。。--以上の署名のないコメントは、Takatajima会話投稿記録)さんが 2006年11月7日 (火) 02:02 (UTC) に投稿したものです(ジャムリンによる付記)。[返信]

吉良頼康室の名前についてご提案[編集]

蒔田殿の記載を大方殿に訂正した件ですが、出典は「北条早雲とその一族」53P~55Pの記載によります。 53Pに「この時、「吉良氏」は蒔田殿と呼ばれ・・・」と記載があり、この事から、吉良頼康室≠蒔田殿と判断しました。大方殿については同書55Pに「頼康が死去し、「大方殿」と称された」という記載より引いています。(ただし、大方殿はご指摘の通り「大奥様」の意ですので、名称としては不適切でしたね。これは私の誤りです)

なお新編武蔵風土記稿の蒔田村の項(近代デジタルライブラリーへのリンク 105-106P、「古跡館蹟」をご参照ください。コマでいうと60コマです)に吉良頼康の略歴が載っており、そこに吉良頼康室に関する記載もありました。

こちらの記載を見てみると、吉良頼康室の意味で、【小田原記】から「蒔田殿」、「蒔田殿の御前」という呼称が、【北条家譜】から「蒔田御所の室」という呼称を引用しています。 確かに「蒔田殿」の呼称を吉良頼康室として使っている事例はあるのですが、「蒔田殿は蒔田殿の御前という意味である」という記載がありますので、「蒔田殿」∋「吉良頼康室」であっても「蒔田殿」=「吉良頼康室」とは判断できないと思います。

ジャムリンさんのほうで出典されている人名辞典については未見なのですが、上記から「蒔田殿」を吉良頼康室を指す統一的な名称にするのは反対します。

結論としては「蒔田殿」も「大方殿」当該人物の呼称としては適切ではありません。ということで提案なのですが、無難に「吉良頼康室」へ名称を変えませんか?其の上で、本文中に「吉良頼康と共に蒔田に住んだので蒔田殿、蒔田殿の御前と呼ばれた」、「頼康死後、大方殿と呼ばれた」と補足を入れれば一番確実な表記になると思いますが、いかがでしょうか?Kamakura会話2014年2月5日 (水) 13:14 (UTC)[返信]

コメント とりあえず単に「吉良頼康室」として記載するというKamakuraさんのご提案に同意します。もうひとつの出典とした『戦国北条五代』も黒田氏によると現時点で最新の『北条早雲とその一族』の追補改訂版のようなものであるということで、そちらにも氏綱子女として「吉良頼康室」とだけ記載されていました。近刊予定の下山氏の『戦国北条氏五代の盛衰』[1]に院号等他何らかの別の言及があれば、またご相談させていただきたいと思います。--ジャムリン会話2014年2月5日 (水) 14:51 (UTC)[返信]