ノート:佐々政元

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出典の明記[編集]

ポテンシャル0様 ご質問の件ですが、Wikipedia:出典を明記するにあるように記事を執筆なさった際の参考文献の明示をお願いしています。個々の細かい箇所の出典を示してほしいとの意味ではありません。--114.178.129.162 2010年6月7日 (月) 16:06 (UTC)[返信]


了解しました。自分の自己紹介の部分にも書いてあるのですが、基本的に図書館で借りた本を参考にノートなどにまとめておき、それを後で書き起こすというスタイルを取っているので、「多分あれだろう」という候補はあるのですが、全てを読み直す時間はないので、とりあえず候補だけ並べておきます。(本来ならノートに取る毎に参考文献をまとめておくのがよいのでしょうが、複数の本を参考にした場合、どの部分はどの本から調べたとか全て記録していたわけではなかったので、大体の書籍しかわかりません。) 以下、参考文献とした可能性が高い書籍。

おそらく、この当たりの書籍を参考にしたと思います。あと『末森記』って末森合戦の話も読んだかも。 ただ、どの部分をどの本から?と聞かれると、既に返却してしまった本なので再調査には莫大な時間がかかるので、これで納得いただけないでしょうか?--ポテンシャル0 2010年6月7日 (月) 21:37 (UTC)[返信]


では、ちょっと「どれからどこを」という部分まではわかりませんが、一応、参考書籍の候補として掲載しておきますので、要出典タグが不要であれば外しておいてください。--ポテンシャル0 2010年6月8日 (火) 02:13 (UTC)[返信]

実名は「政元」ですので改名してよろしいでしょうか。また、生年の典拠、元々武士身分ではなかったという典拠、また成政の姉方の叔父という典拠を教えてください。また富山の役では佐々軍は自主的に富山城に撤退しているはずですし、政元は富山城にあって成政に降伏を説いたとされています。また殉死したというのは誤りで加藤清正に仕えて朝鮮の役に従軍しているはずです(この時期の書状で実名も判明したという記憶があります)。殉死したのは平左衛門ではなく佐々与左衛門という話もあります。--夜叉熊 2010年6月14日 (月) 14:12 (UTC)[返信]


改名の件は典拠があるなら問題ないです。その他諸々の相違点についても前述した書籍の記述を参考としており、図書館で借りた本であるために現在書籍が手元にないため、どの部分がどの本のどの記述を・・・と聞かれても考証に莫大な時間がかかると思いますので、何か他に典拠となる資料があって、否定できるのであれば、そう編集して下さい。お手数をかけますがよろしく。--ポテンシャル0 2010年6月16日 (水) 21:00 (UTC)[返信]


本文見る前に書き込んでしまいました。既に編集後だったのですね。すみません。ただ1つ疑問に思ったのは総じて参考とした資料のほとんどに「成政より7つ年上」と書かれていたように記憶があります。まあ、成政の生まれ年も諸説あるので具体的にはわかりませんが、少なくとも年上であった可能性は高いと思われるのですが、その彼が朝鮮の役に従軍するというのは年齢的に無理がないでしょうか?(成政と同年代だとしても60歳前後での従軍となります)諱についてや、殉死でなく加藤清正に仕えたという典拠は何になっているのでしょうか?お手数ですが典拠の追加をお願いします。--ポテンシャル0 2010年6月16日 (水) 21:14 (UTC)[返信]

参考文献にあげられている本は全て所有していますので、追々検証したいと思います。手元にある浅野清『佐々成政関係文書』を確認したところ、政元の実名のある書状はは肥後国人一揆平定の時のもので、朝鮮の役の時のものではありませんでした。(同書184頁、十二月五日付深水三河入道、蓑田信濃守宛書状)訂正してお詫びします。ただ成政の死後清正に仕えたというのは、谷口克広『織田信長家臣人名事典』の佐々平太の項に『越登加三州志』を引いて書いてありました。また、浅野清『佐々成政関係資料集成』には、参謀本部編『日本戦史「朝鮮の役」』を引いて加藤清正の部下に佐々平左衛門の名あり。と書いてありました。因みに、浅野氏の著によれば平左衛門は「丹羽勘助氏次の子。成政の叔父宗長の養子」とありますが武功夜話に拠ったもののようであり根拠は弱い気が致します。--夜叉熊 2010年6月19日 (土) 02:22 (UTC)[返信]


典拠の追加、編集ありがとうございました。--ポテンシャル0 2010年6月19日 (土) 03:48 (UTC)[返信]

他にも疑問点がいくつか。 ・賤ヶ岳合戦の時に兵600を率いて加わったとする典拠は?小牧長久手の時に一時秀吉方として援軍を派遣したときのことと混同されているのではないでしょうか?私の記憶も曖昧で確実とは言えませんので、私も史料に当たってみます。 ・龍ヶ峰城を守って攻め落とされたという典拠は?検索してみるとこのようなHP[1]がありましたが、これには守っていたのは佐々与左衛門とされています。 お手数をおかけしますが、先にあげた点と併せて、典拠を示して頂けると非常に助かります。よろしくお願いします。--夜叉熊 2010年6月20日 (日) 03:31 (UTC)[返信]


細かいことではありますが、「姉方の叔父」=本人の叔父ではないのでしょうか?母方かな?

改名提案[編集]

実名が判っているので、通称の平左衛門より政元にしては如何かと改名を提案します。赤穂四十七士をはじめ、実名が判明している人物を通称で記事にしておりませんので、妥当かと思います。--高先星会話2021年11月16日 (火) 08:29 (UTC)[返信]