ノート:乃木神社前駅

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ホームのモニュメントを「偽物」と表現することについて[編集]

222.225.119.126さんと編集合戦になってしまいそうだったため、こちらに相談を持ちかけます。本項目のようにローカルな内容を扱う記事が多少、現地住人でなければ確認できない独自研究や、個人的な思い出に基づくエッセイ的な内容になってしまうのは、(本来はルール違反と言え)私としてはある程度仕方がないとも思うのですが、現在の乃木神社前駅跡地にあるホームのモニュメントを「偽物」と表現することについては違和感を感じています。

確かに当時のホームと今のモニュメントはまったくの別物であり、一部の鉄道ファンから偽物呼ばわりされている現状は把握しています。恐らく当時の駅舎に思い入れのある世代の方にとっては、往時の姿を再現していない現在のモニュメントには複雑な心境を抱えていたり、現在のモニュメントを本物だと思っている人には「あれは違うんだ」と言ってやりたい気持ちもあるのでしよう。ですが、このモニュメントを設置した団体は恐らく、別に悪意に基づいて通行人を欺こうとか、何らかの歴史的事実を隠蔽するためにこれを設置しているのではないはずなので、「偽物」と表現するのは「中立的な観点」から見て問題があるのではないかと感じています。私としては「新たに場所を移して作り直されたものであり往時の姿を再現したものではない」ことを淡々と説明すれば十分であり、これを「全くの偽物」と語気を強めて表現したり、「要注意」とまで言って騙されないよう警戒を促すのは、編集者個人の思想(敵意)のようなものが感じられて、ウィキペディアのルールでは受け入れられない表現に思えます。私はこれを除去すべきと考えます。

ただしウィキペディアでは、自費出版ではない書籍として出版された意見や、誰にでも閲覧できる形で公開された当事者・学者などの意見は、いち意見として紹介することができることになっています。ウィキペディアの記事執筆に携わる者のいち意見ではなく、引用の体裁で「著者○○は自著の中で、このモニュメントを“往時の姿をまるで再現できていない偽物”などと批判している」のような形で引用することができるのなら、ルールの範囲内ですから、私としても納得します。--Kanohara 2009年9月25日 (金) 18:04 (UTC)[返信]

「偽物」と、あえてきつい表現をしている理由は、このモニュメントに関してはいくつか問題があるからです。 JTB日本交通公社出版局刊「鉄道廃線跡を歩くⅡ」宮脇俊三著1996年、の「東野鉄道」の項目(46ページ)には、「乃木神社駅前があった場所には、プラットホームが石材で造られ、駅名表示板と短い線路が設置されて、東野鉄道の記念碑的な役割を果たしている」という記述があります。つまり、鉄道マニアのトップにあたる大御所の本に、明確にモニュメントの場所が駅の跡と記載されています。この本を引用したいくつかのサイト(閉鎖したものもありますが)に、旧乃木神社前駅跡という表現でモニュメントを掲載しているものがあり、さらには孫引きしたサイトまで現れ、後世に誤りが拡大していくことが懸念されます。 同様に西那須野駅跡は現在のステーションビルの場所ですが、同著には、「JR西那須野駅の東側に隣接した東野鉄道の駅の跡は、東口駅前広場の滝のオブジェや駐輪場となって跡形もないが・・」とあり、この内容を引用したいくつかのサイトで同様の表現が見られ、この点も懸念事項です。 また、ポッポ通りの整備は、平成元年度の事業として行われております。このときの企画会社の案に基づいて乃木神社の「偽」モニュメントや、東野鉄道とは全く関係ない大型機関車の動輪を配置されたり、大高前駅のレールの敷いてあるホームなどが造られました。歴史を「捏造」するかのような企画に対して、あえて「偽物」という表現をとっております。--以上の署名の無いコメントは、222.225.107.197会話投稿記録)さんによるものです。

申し訳ないですが、「捏造を正す」とかの考えでWikipediaに参加するのはご遠慮下さい。そのような観点で書かれた文章はWikipedia:ウィキペディアは何ではないかは反し、受けいれておりません。Wikipedia:検証可能性に基づく、正確で百科辞典的な文章を求めているのであって、世の中の間違いを正したり、啓蒙したりすることはWikipediaでは求めておりません。Wikipedia:編集方針に則り、Wikipedia:中立的な観点での文章・表現を求めております。ご理解をお願いいたします。--Los688 2009年10月3日 (土) 06:50 (UTC)[返信]

分かりました、それでは検証可能な引例として、西那須野町史編さん委員会偏、西那須野町発行「西那須野町の交通通信史」平成五年、180ページに記載されている、「「乃木神社前」は、乃木神社参詣者のために、乃木神社参道西側につくられた(現在の停車場を模したポケットパークの所とは異なる)」を揚げ、記載致します。--以上の署名の無いコメントは、222.225.107.197会話投稿記録)さんによるものです。

色々と書こうと思っていのですが、Los688さんの説明で納得して頂いたようで幸いです。なお、ぽっぽ通りの整備に携わった企画会社に歴史を捏造しようとする意思があったか否かは立証が困難だと思うのですが、モニュメントの場所を駅の跡地であるかのように記載している資料もあることを提示しつつ、より正確であろう資料を提示するような形での記載は可能のように思われ、その根拠が読者にも納得のいく形で明示されていれば、語気を強めて注意を促さなくても伝わるはずであると考えます。--Kanohara 2009年10月3日 (土) 08:31 (UTC)[返信]
報告 222.225.107.197さんから提示して頂いた出典を元に、なるべく222.225.107.197さんの意を汲んだつもりで推敲を施してみました。中立性については解決したと考え、テンプレートを外しました。なお、編集中にTwilight2640さんと編集競合を起こしてしまい、せっかくTwilight2640さんが整形して頂いた箇所と競合してしまった点は申し訳なく思うのですが、それにしてもローカルな内容だと思っていたこの記事に、これだけ注目が集まっていたことを知り驚きつつも心強く感じます。それから言うまでもなく、一次資料だけでなく、論拠となる出典をしっかりと示して頂いた222.225.107.197さんには大変感謝しています。--Kanohara 2009年10月3日 (土) 12:40 (UTC)[返信]
その編集競合のせいかもしれませんが、修正したはずの主観的表現が復活していましたので再度修正しました。また、戦時中の休止扱いについて、「一ユーザーが地元の古老から聞いた」ではWikipediaで求められている検証可能性を満たせませんので、脚注をコメントアウトして通常の要出典としました。もしこれが『西那須野町の交通通信史』や 『栃木県鉄道史話』などの書籍に「地元の古老から聞いた話」として書かれているのであれば、そのように修正をお願いします。--Twilight2640 2009年10月3日 (土) 16:13 (UTC)[返信]
ウィキペディアのルールに反するのは確かなのですが、特に利害関係の問題や真偽を巡っての議論があるわけでもなく、また「戦時中は運休」という尤もらしくも有意義な情報で、かつ一次情報源に基づく情報であることを敢えて開示して真偽を読者に委ねつつ正確な出典を募ることは、まあ出所の怪しい情報をそ知らぬ顔で書かれるよりはずっとよく、ローカルな記事の枝葉の記載であれば見過ごしてもよいのではないかと思ったのですが、やはり問題もあろうということで、乃木神社前駅から最寄の図書館で郷土資料を調べてきました。
文献を当たった結果、「那須野ヶ原の鉄道100年史」(詳細は記事の参考文献節参照)記載の年表において、太平洋戦争直前となる1940年にこの駅が他の幾つかの駅と共に廃止申請された、という趣旨の簡単な記述を発見しました。なぜ申請が行われたのか、申請は受理されたのか、そして申請が受理されたとすればいつ復活したのかという点については、記述を見つけたのが図書館の閉館時間間際だったこともあってか、詳細な記述を発見することができなかったのですが、これは一次情報を裏付ける内容であろうと考え、記事の方へ反映させておきました。
なお、ISBNも振られていない古くローカルな文献は検証可能性を満たすものなのか、という点で危ういものは感じますが、東野鉄道に関する他の書籍にもこの文献を参考文献としているものが見られ、また那須塩原市内の複数の図書館にも蔵書があることをWebサイトで確認しましたので(大田原市の図書館は来週まで休館中につき不明です)、まあこれは信頼でき検証可能な文献の範疇であろうと私は考えています。--Kanohara 2009年10月9日 (金) 13:23 (UTC)[返信]