ノート:三増峠の戦い

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三増峠合戦は越相同盟破棄の遠因か[編集]

三増峠合戦というのは武田氏の駿河侵攻に端を発した武田・北条・上杉三者の関係から生じた局地的な合戦ですよね。北条氏は上杉氏と越相同盟を結び武田氏を威圧し、武田側ではこれに対向する手段として信長・将軍義昭に持ちかけた「甲越和与」や、北関東諸属への呼びかけて北条領国へ圧力を加えます。特に後者が効いたらしく、さらに信玄は小田原攻囲を行うことで威圧を加え、三増峠合戦はこの過程で発生していますね。

以上は丸島和洋氏の論考を参照し理解していますが、こののち北条は上杉との同盟継続を行っていますが、北条側では上杉謙信が出兵しないことへの疑念、上杉方では北条が武田と結ぶのではないかという疑念が生じていることが文書から確認できるらしく(丸島氏によります)、こうした疑心暗鬼的な外交情勢のなか上杉方が武田との同盟をもちかけ、武田ではこれを断り北条と秘密裏に和睦し、甲相同盟回復に至る、とあります。

つまり、越相同盟破棄の原因は北条と上杉氏の間の外交関係における疑心暗鬼状態であり、その要因は謙信が武田氏の武蔵侵攻に対して出兵しなかったであるとか、そういうことではないのでしょうか。三増峠合戦というのは小田原攻囲から撤退する武田勢と追撃する北条勢との局地戦であるようですから、この合戦事態が同盟破棄の原因というわけではないのではないでしょうか。--でここ 2010年6月23日 (水) 13:24 (UTC)[返信]

確かに三増峠合戦自体で、というわけではないようです。ただ有名な合戦のせいか、小田原城攻めからの流れも包括してしまっているような部分もありますし、記事のあり方も一考すべきかも知れません。
既に、武田氏の小田原城攻撃の前には越相同盟の締結条件にあった放生会以前の西上野・信濃出兵を謙信が反故にしていることに対して氏政は、8月下旬付けで仲介の由良成繁と北条高広に「管領職并びに上州一国、武州所々岩付までをも、輝虎なおほしいままの御ことわり。併しながら氏政を何方までおし詰めらるべきあつかい~」(「集古文書・歴代古案」山口博『北条氏康と東国の戦国世界』(夢工房)P105、)といった強い調子の不満を書き送っています。氏政の岩付割譲についての不満は元々あったようですし、実子での養子をゴネた時点でもう、謙信に対する不信はあったと黒田基樹氏、山口博氏他、平山優氏も同見解のように見受けられます。小田原他北条領への武田氏の侵攻中も謙信には支援要請を何度も送っていたり、本文からは以前に削除されていましたが、それに対して結局支援が無かったことへの氏康・氏政が文句をつづった書状も10月20日付「御加勢一途これなき故、各の如き儀是非なく候」と『上杉家文書』(山口博『北条氏康と東国の戦国世界』(夢工房)P110、平山優『武田信玄』(吉川弘文館)P70、他)には残っています。
とはいえ、謙信への養子が景虎に決まったあとでも、養子として送る時期を、武田氏と謙信の「甲越和与」の破棄の先か後かでもめているくらいですから、「甲越和与」のことは北条氏も後からでも知っていたことは確実なんですが、その後も続く効果的時期を逸する謙信の出兵への不信、それに対して謙信が手を切ったあとの武田氏と北条氏が結ぶのでないかという疑念は、でここさんのご指摘のとおり史料に残っているようです。他にも将軍からは甲越相で三国で和与という話もあったとか、この頃の北条氏、武田氏、上杉氏の同盟は、駿河・遠江情勢を睨んでの徳川家康や織田信長とのそれぞれの同盟の動きとも絡んで錯綜しているので、一合戦でどうこういえるほど単純じゃないですね。--ジャムリン 2010年6月23日 (水) 14:54 (UTC)[返信]

ジャムリン様、詳細な解説ありがとうございます。というわけで、三増峠合戦に至る一連の経緯が越相同盟解消の遠因となっているという見解は、出展情報の補完は必要であると思いますが、特に独自研究的なニュアンスは感じられないように思います。RightWinger様、いかがでしょうか。--でここ 2010年6月23日 (水) 15:25 (UTC)[返信]

でここ様、そしてジャムリン様、はじめまして。まず始めに、このような議論の場を設けてくださったことに感謝いたします。ありがとうございます。人それぞれ独自の見方・考え方がありますから、記述に差異はあれど、真実は一つです。三人寄れば文殊の知恵と申しますし、有意義な議論ができればと思います。
さて論点となっている三増峠合戦と越相同盟破棄の関連性についてですが、でここ様は冒頭の書き込みで、この合戦が越相同盟破棄の原因ではないとの立場でいらっしゃいますが、これは現時点でもその通りなのでしょうか。私もこの合戦が同盟破棄の直接の原因とは考えておりません。永禄12年(1569年)、武田勢が武蔵・相模へ侵攻して後北条勢が上杉勢に救援を要請した時期、上杉勢は武田方の越中連合軍と越中松倉城で交戦中です。救援に向かおうにも兵を引くには敵の追撃を受けるわけですから、即座に援軍を送れるものではありません。ですから上杉勢が救援要請を無視し、盟約を反故にしたというのは極論過ぎるのではないでしょうか。また、この北陸での対立関係から甲越和与が有名無実であることが把握できます。でここ様・ジャムリン様もご指摘のとおり、この越相同盟・甲越和与の期間、誰が敵か味方か曖昧な時期だった模様です。武田勢が小田原城下に火を放ち、三増峠で合戦を行った時、上杉勢は関東へ出兵して武田勢を牽制しています。ですからこの合戦が越相同盟破棄の直接的要因になったというのは説得力に欠ける憶測ではないでしょうか。
そもそも三増峠合戦は、武田勢・後北条勢が中心となり、武田勢の侵略を受けた今川勢および徳川勢が主に交戦・関係している戦いです。今川勢や徳川勢の記述は特にないにも関わらず、どういうわけか上杉勢の盟約に関する記述を数行にも渡り記述するのは、この合戦の記載としていささか不適切ではないでしょうか。この合戦は武田勢の駿河侵攻という急展開が発端ですから、駿河および合戦のあった相模の情勢が中心であるはずです。
また、同盟締結時の盟約を反故にしたとの記述も見かけますが、やはり時は戦国時代、予想だにしない情勢の急変により双方とも盟約違反を複数犯している模様です。上杉勢は北信濃出兵の時期が遅れたことや、後北条勢が越中出兵中の上杉勢に援軍を送らなかったこと等です(『上杉古文書』)。しかしこのようなことは権謀術数が張り巡らされる当時、どの大名間でも存在したものです。現代においても受注発注時の契約どおり仕事が運ぶ場合は少ないでしょう。あえて盟約違反を事細かに記述する必要はないのではないでしょうか。
仕事の合間を縫っての書き込みですので誤字脱字あればご容赦ください。もうしばらく議論が続くようでしたら、また時間に余裕があるときに返事の書き込みをさせていただければと思います。--RightWinger 2010年6月24日 (木) 13:08 (UTC)[返信]

RightWinger様、コメントありがとうございます。三増峠合戦から越相同盟破綻に至る経緯についてはジャムリン様がお詳しそうなので議論のほうはお任せしたいのですが、ただひとつだけ指摘しておきたいのは、「三増峠合戦は越相同盟破綻の要因か」の命題について、あくまで典拠文献に基づいた議論を行うべきであるものと考えます。典拠文献を挟まないで妥当性のみを議論することは独自研究の第一歩であると危惧いたします。あくまで文献を精査し、そのような見解が既存の研究から確認できるのかどうか、この観点で議論が行われることを期待いたします。

RightWinger様がご指摘なされている上杉方の盟約違反を事細かに記述する必要があるのかという点につきましても、既存文献と照らし合わせて、大半の典拠文献において指摘されているならばそれに従うべきものであると考えます。--でここ 2010年6月24日 (木) 13:59 (UTC)[返信]

でここ様、ご指摘ありがとうございます。典拠文献に基づいた議論を行うようにとのアドバイス、しかと心に留めさせていただきます。独自研究をwikipediaに記述することは、あってはならないことですし、お互い他者の意見に真剣に耳を傾けることが大切でしょう。
ただ私がどうも不可解に思うのは、なぜ三増峠合戦のページで越相同盟の詳細な記述を載せる必要があるのかということです。もちろん出典があるのはわかります。しかし例えていうなら長篠の合戦のページに三方ヶ原の合戦の詳細な記述を載せるようなものです。関連性があるからといって別事項を記述するのは、やや不適切ではないでしょうか。ページをお読みになる方も読み辛さを感じると思います。シンプル・イズ・ベストとも申しますし、すべての方々が利用しやすいwikipediaを目指すべきではないでしょうか。--RightWinger 2010年6月28日 (月) 15:11 (UTC)[返信]
「同盟締結時の盟約を反故にした」については、7月末に謙信自らが「信濃に出兵する準備をしたが、武田との和与のことがあるので延期する」と家臣の鮎川盛長に送った旨の文書が残っています。(森山八郎氏所蔵文書『上越史』別編1-780、池享・矢田俊文『上杉氏年表(増補改訂版)』(高志書院)P136、平山優『武田信玄』(吉川弘文館)P68)。
初めて合戦の影響について編集されたのは2009年2月12日 (木) 21:50時点における版からで、本来なら同盟についてのページで詳細にすべきですが、影響したという論拠を示せという流れになったために必要以上の記述になってしまったようです。戦としてそこに至る背景とともに影響について記述されることは不適切であるとは思いません。むしろ背景も合戦が与えた影響すら言及されていない辞書的記述のみのシンプルさは利用のし甲斐もないものではないでしょうか。確かにこのページで詳細にすべきことがらではないと思いますが、影響があったこととして越相同盟のことをあげて、それについての詳細を求める利用者のためにリンクで誘導するくらいことは適当であると思います。この合戦だけが影響したわけではありませんが、また無関係であったわけでもないからです。--ジャムリン 2010年6月28日 (月) 15:55 (UTC)[返信]
同盟の破綻の理由にはならない論拠として、RightWingerさんは「武田勢が小田原城下に火を放ち、三増峠で合戦を行った時、上杉勢は関東へ出兵して武田勢を牽制しています。」と言われますが、それはどの文献・出典に書かれていることでしょうか?越相同盟の項でも時系列を勘違いされた方がいたので訂正した経緯があったのですが[1]、それとは別のことでしょうか?謙信はそのころ越中にあり春日山に戻ったのは、三増峠の合戦後に北条氏が更なる約定の遵守をせまったあとの10月27日(歴代古案)、それから越山して沼田に着陣したのは11月20日(池享・矢田俊文『上杉氏年表(増補改訂版)』(高志書院)P136、山口博『北条氏康と東国の戦国世界』(夢工房)P111)ですので、派遣したとすれば、誰の部隊がどこで牽制したのか出典を提示していただければと思います。--ジャムリン 2010年7月6日 (火) 08:31 (UTC)[返信]

こんばんは、ご無沙汰しております。いつも編集御苦労さまです。 さて、まず私の出典についておっしゃるのでしたら、ジャムリン様もご自身の書込みの出典だけでなく、ページ数も詳細に明記されてはいかがですか。そうすれば不必要な論争が起こるのも減るでしょう。また参考になさった出典が一体どの程度信憑性があるのかも重要になってまいります。一次資料で信玄公と謙信公の一騎打ちの記述があるからといって、それを事実と信じて書き込む人は現在はいないでしょう。また当時の書状に記述があるからといって、それが真実とは限りません。生き抜くためには書状に嘘の内容を書くことも当然あるわけですから。余談ですが元就公が数多くの偽の手紙を送りつけたことは有名です。

私には何故あなたがそれほど越相同盟や氏康公にこだわっていらっしゃるのか、はかり兼ねます。私個人としては氏康公は名君であったと思います。7公3民の重税を庶民に課した信玄公や、たび重なる遠征や上洛時に庶民・家臣に負担を強いた謙信公に比べれば、5公5民により庶民生活に安心を与えた氏康公は君主の鏡です。宴会を頻繁に開くなど贅沢三昧をして庶民を苦しめた上杉憲政を氏康公が追放した時は、上野の庶民も喜んだことでしょう。

ただジャムリン様の投稿記録を読ませていただきましたが、少し編集するに際して熱くなっていらっしゃるようにも見受けられます。確かにウィキペディアの編集に情熱を傾けるのも知識という固いパンをかじる充実した時間でしょう。しかし他にも大切なことがあるのではないでしょうか。

三増峠合戦の最大の背景は信玄公による駿河侵攻、そして氏康公・家康公・今川氏による駿河防衛です。関連事項として書き込むならこちらでしょう。越相同盟について書き込むのを是とするなら、桶狭間合戦や家康公の今川家からの独立、遠江の混乱、清州同盟、義信自害も関連ありとしてこのページに数十行から数百行に渡り詳細に記述しなければなりません。そういうわけにはいかないでしょう。一体このページが何についての記述かわからなくなってしまいます。やはり一人でも多くの方にウィキペディアを利用していただくためにも、全体の流れを把握し易い文章にまとめ上げたいものです。--RightWinger 2010年7月6日 (火) 12:43 (UTC)[返信]

最新の武田氏文献である武田氏研究会編「武田氏年表」永禄12年条を見ると、上杉氏による武田領国侵攻は記載がありません。前永禄11年からの経緯を見ると、駿河侵攻の実行を前に上方では将軍義昭・信長による甲越関係の調停が試みられているのですが信玄は北越まで出兵しており、断交状態となっています。同年末からの駿河侵攻で越相間の同盟交渉が開始され、永禄12年5月には成立しています。さらに信玄が将軍義昭・信長に根回しをしたことで武田・上杉間の和睦(甲越和与)が成立し、北条方では信濃・西上野への侵攻を要請しますが、謙信は甲越和与を理由に出陣を取りやめた、とあります。そして同年6月からの武田氏による相模侵攻で、三増峠合戦に至っていますが、同時期の上杉氏による武田領国への侵攻はありません。

この経緯を見ていると、越相同盟は三増峠合戦に至る敬意において、かなり主軸に関わる重要な出来事のように思えるのですが・・--でここ 2010年7月6日 (火) 15:23 (UTC)[返信]

他の項で詳細にすべきほどに書き込むことはしない方がいいかと思いますが、でここさんのコメントと同じく、該当項の合戦の影響として越相同盟に触れて、リンク誘導することは適当だと考えます。理由は既に上記に出したとおりです。
記事内容が簡潔か否かは記述が長くなるかどうかとは別問題であり、該当項を充実するに足るか否か、また充実にあたって適切かの問題かと思います。また長い短いは別にして出典は必要であり、他の項の、[2]のように故意なのか、勘違いなのか「提示した参考文献に書いてあった。私見ではない」と言いながら出典に書かれていない私見を書き連ねている方もおりましたので、ページ数提示も確かに大事だと思います。私はその方の提示された参考文献は全部読んだので、その方の編集したことが出典になかったことが判りました。他にも自身で編集した項の出典ページ数に関しましては追々付け足していこうと思い、けれど編集回数が過剰に多くなってはいけませんので、今は下書き改稿しているところです。出典についても上記や他投稿を読んでいただればお判りのことと思いますが、専門研究者の書かれた複数文献に拠っていますし、その中で文書自体の真贋と共に、内容の検討、軍伝・軍記の類はその中で複数の同時代史料や研究書により比定され、現時点での信頼性の有無や高低を詳らかにされています。そしてそれを典拠として提示し編集しております。まずはこのページで出した事項についての参考文献と、その出典ページ数を加えてみました。
RightWingerさんは他に対しては「出典はページ数まで」と言いながら、ご自分ではページ数どころか、文書・史料をベースに研究検討した文献名すら出されていませんが、ページ数なしの書名だけでも出していただければ私は読むつもりでおりますから、RightWingerさんの記述の出典書名だけでも提示していただければと思います。また私個人が読むか読まないかは関係なくWikipedia:検証可能性Wikipedia:出典を明記するWikipedia:信頼できる情報源、の方針から言って必要なのは、「ページ数を明記」までを訴えるRightWingerさんならお判りのことと思いますので、まず、ご自身でも実行されてみてはいかがでしょうか?--ジャムリン 2010年7月6日 (火) 20:40 (UTC)[返信]