ノート:三別抄

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タグの付加について[編集]

三別抄#三別抄の乱三別抄#元寇への影響についてのそれぞれの箇所で、正確性に疑問が感じられたために改善されるまで一時的にタグを付加しました。前者については、まずそもそも「軍船兵糧、将兵を提供」はモンゴル帝国に臣従する勢力には一律に負担させられる軍役上の義務なので、これは高麗への臣従要求の段階からモンゴル側から言われ続けていたことであり、別に忠烈王だけでなく先代の元宗の時代から南宋遠征に向けて供出を命じられていたため、忠烈王にしてみれば積極的であるか否かは関係なく必ず供出せねばなりませんでした。現行の文言ではあたかも忠烈王の個人的な裁量で「積極的に」意図されたかように印象を受け取られやすい表現になっているため、適切とは言い難いものです。
 後者は「それ以前に30余年に渡って和戦を続けた高麗王朝の存在の方がまだしも影響を与えた可能性があるが、結局のところ元の走狗となって共に日本へと侵攻してきているため、いずれにせよ説得力はない」と書かれていますが、そもそもこのような表現は誰の意見に依拠したものなのでしょう? 戦後の歴史研究をたどっても三別抄の存在が取沙汰されて久しいですが、1970年代に「高麗牒状不審条々」が発見されてからは特に文永の役前後の三別抄の影響についての具体的な見直しが色々されてきたように思いますが、それらの研究を踏まえた上での表現になっているようには思われません。特に、趙良弼が日本に派遣された時に、趙良弼は博多で南宋と三別抄からの使節と思しい集団が大宰府守護所や幕府の要人近辺で、盛んに趙良弼らモンゴル側使節の活動を妨害したり誹謗的な主張を吹聴してまわっていたと報告しているようですから、そういった近年までの研究とを照らし合わせても、その影響力について安易に「いずれにせよ説得力はない」という表現が使われるのは適切性を欠いているように思います(博多滞在時の趙良弼については山本光朗「元使趙良弼について」『史流』 40号、2001年4月、1-48頁 等がありますが)。また、モンゴル帝国に臣従して以降の高麗についても(『モンゴル帝国の覇権と朝鮮半島』等を出された森平雅彦先生は「事元期」と表現されてましたが)、「元の走狗となって」という文言は無闇に侮蔑的な表現を含んでおり、百科事典として相応しい表現とはこれまた言い難いものです。
 「元寇への影響について」と題されている以上は、その「影響」というのが具体的にどこまで判明しているのか、(記事全体も勿論そうですが)可能な限り今日までの研究でどのくらい調査がされているのかを踏まえた上で記事にすべきだと思われるため、改善がされるまでタグを付加しておきたいと思います。(今日の韓国等で三別抄がどのように受け止められているかも記事として載せるのも、記事上必要だろうとも思います) --Haydar会話2014年4月1日 (火) 17:05 (UTC)[返信]