ノート:三つ葉葵

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元に戻しとみられる編集について[編集]

2008年4月8日 (火) 02:46にAityanloveさんが三つ葉葵にてされておられます、2008年2月3日 (日) 13:07の版とほぼ同じように元に戻しと見られます編集について、要約としてその理由が示されておられなかったことについてAityanloveさんへお問い合わせをいたしましたところ、私のノートへ以下のようにお応えをいただきました。

脚注の誤り

宝飯郡伊奈本多正忠が、七代清康の時に、吉田城及び田原を攻める際に味方し、清康の凱旋を伊奈に迎えて、供応し、三つ葉の葵に肴を盛って、
出したことに、清康は喜び、「汝このたび、我に味方し、合戦勝利を得たり、三つ葵は汝の家紋と聞くが、このたびの吉例により、我に与えよ、」
としたことによるという。そのため岡崎随念寺に伝わる清康画像に使われている紋は、三つ葵である。
↑藩翰譜の記述。
本多中務大輔家より献じたものとも伝わる。本多の家の祖は、賀茂の社職をしていたことにより、従来葵紋という。[5]
↑藩翰譜ではなく、成島司直の改正三河後風土記の記述。
※全体に是正しました。

元に戻しは以上のことによるものと解釈されます。しかし、脚注の誤りのみである場合には、元に戻しをするまでもないように思われます。編集の理由・要約と編集内容が噛みあわないようにも思われますので、詳しくご説明いただければと思います。--ムカイ 2008年4月9日 (水) 13:55 (UTC)[返信]


統合提案[編集]

会津葵三つ葉葵へ統合することを提案いたします。 理由は、会津葵にある記述、文章の大半が三つ葉葵と共通する特徴であり、言及されるべき部分(以下のイタリック体)が同じような内容のものであることによります。

会津葵

徳川家の三つ葉葵の紋とほぼ同じで丸に三枚の葉が円の中心に向かって配されている。三枚の葉はオリジナルの葵(フタバアオイ)の葉の図案ではなく、よく似た図案である河骨(コウホネ)の葉に見えることから、会津葵は厳密には葵紋ではなく河骨紋であるとの見方もある。

三つ葉葵

また会津松平家が使用した会津葵の葉は、葵ではなく河骨(コウホネ)の葉を使用している。

ご意見をよろしくお願いいたします。--ムカイ 2008年4月19日 (土) 09:06 (UTC)[返信]

一週間ほど様子を覗いましたが、ご意見などがございませんので提案をしてある通り統合を行います。--ムカイ 2008年4月26日 (土) 12:47 (UTC)[返信]

この記事の題名について[編集]

広辞苑に「三つ葉葵」と記載されていないことに少し疑問を抱きました。

・葵巴(あおいどもえ) →広辞苑、第六版

・三葵(みつあおい) →広辞苑、第六版

・三葉葵(みつばあおい) →広辞苑、第六版 →日本史事典、三訂版

「三葉葵」の方が良いのでは、と思います。

しかし、他の文献をお持ちの方で、 それに「三つ葉葵」と記載されているのなら、 むしろ「三つ葉葵」の方がいいと思います。

デジタル大辞泉だと、「三つ葉葵」も載っているのですが、「三つ葉葵」はもしかしたら通俗的な表現なのではないかと思いました。

皆さまのこのノートへの返信や、 このページの改善(出典を増やすなど)を お待ちしております。

まふまふふ会話2018年10月21日 (日) 12:40 (UTC)[返信]

・三葉葵(みつばあおい)

→広辞苑、第六版 

→日本史事典、三訂版

と改行して書きたかったので、 その旨を示しておきます。 まふまふふ会話2018年10月21日 (日) 12:47 (UTC)[返信]

↑初めてノートに書いたので、いろいろと間違えていますね。次からはサンドボックスでテストしてからにします。 まふまふふ会話2018年10月21日 (日) 12:48 (UTC)[返信]

「明鏡国語辞典」では、「葵」の項目に、「三つ葉葵」と「葵巴」が載っていました。
2018年10月22日閲覧です。 まふまふふ会話2018年10月22日 (月) 10:19 (UTC)[返信]