ノート:ヘーチマン

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疑問[編集]

いくつかの疑問があります。自ら修正したら、何らかの間違いが入るかもしれないので、ここで書かせて頂きます。

  • 正教の擁護を掲げて叛乱を進めたことから、ヘーチマンは著しい宗教的な威信を獲得することとなった。
  • ヘーチマンは「宗教的な威信」を有していたことがないと思います。ウクライナ・コサックは僧俗分離主義の西洋世界の分子だったんです。「僧」はキエフ大司教がつかさどり、「俗」はヘーチマンがつかさどっていたのです。ウクライナ史上ではヘーチマンは正教のリーダとして登場しませんし、「地上で神様の名代」という性格も持っていなかったのです。フメーリヌィーツィクィイの例を見ると、ヘーチマンは聖職者を利用する場合よりも、聖職者に利用される場合が圧倒的に多かったんです。
  • 黄金の玉を付けた握りであるブンチューク
  • ブンチュークとは、黄金の玉を付けた握りにつけた馬の尻尾のことです。玉より尻尾の存在が重要です。
  • 画像より:右手にブラヴァー、左手にブンチュークを持っている。
  • 右手にブラヴァー、左手にサーベルの柄です。
  • 1654年にロシア皇国・・・
  • ロシア皇国はRusskoye carstvoのことでしょうか?carstvoであれば、王国にした方がいいと思います。ツァーリは「皇(帝)」ではなく、「王」です。それに「皇国」は天皇が治めている日本のことを指す言葉なので、異国に対して使用しない方がいいと思います。紛らわしくなるからです。
  • ヘーチマンは、共和国とオスマン帝国以外の諸外国と外交関係を築く権利を有した。
  • フメーリヌィーツィクィイの時代にはそのような条項がなかったようです。1656年、フメーリヌィーツィクィイ乱中に、モスクワと共和国が平和条約を結ぼうとしたとき、フメーリヌィーツィクィイからのコサック使節が和平交渉に到着したが、モスクワ側の要求によって交渉から外された。それを知ったフメーリヌィーツィクィイは、モスクワから離脱しようと決心し、スヴェデンの保護を受けるようにと働きだしたのです。[1] ヘーチマンには共和国と外交関係を築く権利がなければ、フメーリヌィーツィクィイは大怒ってモスクワの保護から離脱しようとしなかった筈です。
  • 1660年にはウクライナは親ロシア派の左岸ウクライナと親共和国派の右岸ウクライナとに分裂した。

呼んでくださったことと、問題点へのご指摘に感謝いたします。順番に回答します。

  • 日本語の本には、「ヘーチマン権力は宗教的裏づけを持たず、権力の正統付けのためには教会の代わりに宗主国を利用した」というような解説があります。問題の記述は、ロシア語版の「гетман имел значительное влияние на церковные дела」の誤訳ないしは解釈の誤りによるものです。すみませんが、この一文を翻訳してみていただけますか?
  • 私の誤りです。
  • 私の誤りです。
  • 日本語の本には、この時期のモスクワ国家については「モスコーヴィヤ」と書かれるか、「モスクワ国家」と書かれるか、「ヴェリーキイ・クニャーシ」を名乗っていた時期と区別なく「モスクワ大公国」と書かれるか、「Imperia」と区別なく「ロシア帝国」と書かれるかが大半です(したがって、もしページを作成するとしたら、ページ名にはかなり困るところです)。一方、少数派であっても「Russkoye carstvo」と書いているものはないかと思って以前調べたことがあるのですが、ロシア史関係の日本語文献では「ロシア皇国」が定訳のようでした。「王国」だと「korolevstvo」のことになるため、訳し分けをするようです。ただ、おっしゃるとおり「皇国」は別の意味を持つため、「皇国」と書いて上に「ツァールストヴォ」と振り仮名を振っているものもありました。私も自分訳では「ロシア王国」か「ルーシ王国」だと思っていたのですが、「carstvo」を「王国」と訳している書籍は見つけられませんでした(綿密に調べたわけではないので、見落としはあろうかと思いますが)。「hanstvo」が「ハン国」、「emirat」が「アミール国」、「kaganat」が「カガン国」などと書かれるのに範をとり、「ツァーリ国」とするのが一番誤解がなくてよいと思うのですが、これも出典を見つけられそうにありません。むしろ、「ロシアorルーシ・ツァールストヴォ」の方がまだしも出典があるというものです。
  • Он имел право на дипломатические сношения с другими государствами, кроме Речи Посполитой и Османской империи.」の文章です。意味をうまくとれず、訳を間違えたかもしれません。すみませんが、これはどういう文脈なのでしょうか?
  • 1660年というのは、ロシア語版に書かれていることです(「Раскол между сторонниками и противниками Переяславской Рады в итоге привёл в 1660 году к разделу Украины на левобережную (подчинявшуюся России) и правобережную (в составе Речи Посполитой).」の部分)。1660年に選出されたЯким Сомкоが全ウクライナのヘーチマンではなく左岸ヘーチマンに数えられているため、1660年の時点で左右に分裂したとみなしているのでしょう。ソムコが右岸の支持を得ずに左岸だけで選出されたということを、この時点ですでに権力の分裂が起こっていたとみなしているのだと思われます。定説が1663年であるならば、修正しましょう。--PRUSAKYN 2009年1月7日 (水) 14:45 (UTC)[返信]
  • ロシア語版では確かに「гетман имел значительное влияние на церковные дела」と書いてありますが、問題はПРУСАКИНさんの訳ではなく、ロシア語版の主張です。「ヘーチマンは正教会内においてかなりの影響力を有していた」というような主張は出展がない上に、ヤコヴェンコ氏の研究内容([3])と異なります。その文を削除した方がいいと思います。
  • 「ロシア皇国」が定訳は誤解を招く訳だと思います。その理由が以下の通りです。第一に、「ツァーリ」は「皇」ではありません。たとえば、聖書に登場するDAVIDやSOLOMONなどのユダヤ人の王たちは、スラヴ語(ウクライナ語、ロシア語語)の訳では「ツァーリ」と訳されることが多く、また、古代エジプト・バビロニア・インド・ギリシアの王たち・最高権力者はソ連・ロシア・ウクライナ研究史において「ツァーリ」と意訳されることがしばしばあります。つまり、東スラヴ人の世界では「ツァーリ」は「皇帝」よりは「王」であり、「ツァールストヴォ」は「帝国」ではなく「王国」(korolevstvo)の同義語である。それがゆえに「ロシア・ツァールストヴォ」を「ロシア皇国」に訳することが間違いであると思います。第二は、「皇国」は日本独特のことばであり、「日本」の同義であります。小学館の『日本国語大辞典』(5巻、273頁)の「皇国」の記事を見ると、「皇国」は「天皇が統治する国」、「日本の異称」であると書いております。ですから、「ロシア皇国」という組み合わせが「不自然」であるとしかいえません。また、同記事に追加している例文を読むと、「皇国」という用語は19世紀ー20世紀に使用されていたことがわかります。19世紀ー20世紀には日本がロシアと接触していた時代であったため、ロシアのツァールストヴォを「皇国」と呼ぶことが不可能だったと思います。ですから、「Russkoye carstvo」を「ツァーリ国」([4])にするか、ツァーリの称号を承認していなかった近世の西洋の国々にしたがって「モスクワ大公国」([5])にするかは、どれかだと思います。
  • Он имел право на дипломатические сношения с другими государствами, кроме Речи Посполитой и Османской империи.」にかんしては、フメリヌィーツィクィイが署名したいわゆる「三月の条々」([6])が関連してくると思います。その条々によれは、ロシア語版の情報は正確であるといえます。しかし、「三月の条々」の原文がなく、ロシア側の写本しかありません。フメリヌィーツィクィイが署名した本当の「条々」はどのようなものであったかわかりません。1656年のフメリヌィーツィクィイの行動を見て「三月の条々」の内容と対比すると、矛盾があり、その矛盾に基づいて「三月の条々」はフメリヌィーツィクィイ死後にロシア側に部分的に「修正」された書類ではないかと言われています(Салтовський Олександр. Концепції української державності в історії вітчизняної політичної думки (від витоків до початку XX сторіччя). — К.: Вид. ПАРАПАН, 2002. - Проблема держави в Козацьку добу)。フメリヌィーツィクィイ以後のヘーチマンたちは「三月の条々」(ボフダンの条々)に基づいてツァーリに忠誠を誓ったことが知られるが、フメリヌィーツィクィイ自身は具体的にどのような誓いを立てていたかは不明です。それがゆえに私は、フメリヌィーツィクィイの外交権利はツァーリによる権利制限がなかったはずですと書きました。-- Alex K 2009年1月8日 (木) 03:42 (UTC)[返信]
  • わかりました。そういうことでしたら削除しましょう。日本語文献の記述とも矛盾する気がしますし。
  • 「ツァーリ国」という翻訳が実際使われているのですね!私の「独自研究」だと思っていました。「ロシア皇国」という翻訳はやはり語弊があるので、そのため日本語文献では「皇国」の上に「ツァールストヴォ」と振り仮名を振っているのだと思いますし、ウィキペディアでは振り仮名が使えない以上、避けたほうがいいという考えもごもっともかもしれません。ウィキペディアではなるべく「自称優先」だと思いますので、「ロシア・ツァーリ国」でよいと思います(日本語文献での使用頻度からすれば「モスクワ大公国」でよいと思うのですが、ただ、各言語版で「ルースコエ・ツァールストヴォ」のページと「モスコーフスコエ・ヴェリーコエ・クニャージェストヴォ」のページが別に作られているので、将来的にページが作られることを考慮すれば、翻訳は区別したほうがよいと思います)。
  • わかりました。外交権の問題については、脚注等で説明してもよいと思うのですが、必ずしも自明ではない問題であるので(ロシア側の改竄であるという部分をよくよく説明しないとならない)、このページではそこまでやることはないと思いますから、その問題箇所を除去し、もし「三月の条々」のページが作成されることがあれば、そちらで詳しくこの問題について記述するのがよいと思います。いかがでしょうか?--PRUSAKYN 2009年1月8日 (木) 05:54 (UTC)[返信]
  • ありがとう御座います。削除しましょう。
  • 了解いたしました。「ロシア・ツァーリ国」にしましょう。一番いい用語だと思います。(ところで、「ハン国」とか「ツァーリ国」とか書きますが、なぜ「ヘーチマン国」ではなく「ヘーチマン国家」と書くでしょうね?「ヘーチマン国家」と書いたら、意味が若干違ってくるのでしょうか?それとも、「ヘーチマン」の先に国号は付かないから、「ヘーチマン国」と書かないでしょうか?
  • わかりました。ПРУСАКИНさんが仰るようにしましょう。-- Alex K 2009年1月8日 (木) 11:07 (UTC)[返信]
  • なぜ「ヘーチマン国」と書かないのかはわかりません。あってもよさそうな訳ですが、それは見たことがありません。逆に、「ウクライナ国」は「ウクライナ国家」と訳してもよいようなものですが、そうは訳しませんね。「~国家」なのか「~国」なのかは、この場合、たんに習慣であって深い意味はないのかもしれません。これまで考えたことがなかったのでよく答えられません。
  • 他言語版を見ると「ルースコエ・ツァールストヴォ」、「モスコーフスコエ・ヴェリーコエ・クニャージェストヴォ」、「モスコーフスコエ・ゴスダールストヴォ」がそれぞれ別の項目で作成されており、それらとの対応関係を考えると、「ロシア・ツァーリ国」、「モスクワ大公国」、「モスクワ国家」と訳し分けるよりほかないと思います。ただ、この辺りの用語の使い分けは、一般的な日本語文献ではあまり厳密にしていないと思います。もしAlex Kさんがウィキペディア以外で個人的に何か書くことがあったら、これらのどの翻訳を使用しても問題はないと思います。このページの本文では、脚注で「モスクワ大公国」へのリンクも作成しておきましょう(まだ「ロシア・ツァーリ国」が赤リンクですので)。
  • 修正ありがとうございました。--PRUSAKYN 2009年1月8日 (木) 15:27 (UTC)[返信]