ノート:ナンバースクール (宮城県)

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>宮城県仙台第一高等学校 >旧一学区化時、新制高校以降~昭和30年代後半までは仙台二高と互角、昭和30年代後半から学区導入までは県の施策により、宮城県の高校入試最難関の進学校となった。 >宮城県仙台第二高等学校 >旧一学区化時は昭和30年代後半まで仙台一高と東北大学合格者数でトップ争いを続け、昭和30年代後半から学区導入までは県の施策のため、仙台一高に次ぐ実績にあまんじる事となった。

上の記述は事実に反します。昭和24年新制高校初卒業生から学区分割後の昭和57年まで東北大学合格者数で仙台二高が仙台一高を上回ったのは4回しかありません。昭和25年から昭和30年までの合格者数は河北新報、全国紙(読売、朝日、毎日)の宮城版に掲載された合格者名を数え上げることにより得られます(誤植などがあるので各紙を比較対照する必要があります)。特に河北新報では合格発表が午前ならばその日の夕刊、午後ならば翌日朝刊に掲載されました。全国3紙では紙数の関係で宮城県出身者しか掲載されませんでした。河北新報では昭和27年までは同じく宮城県出身者(出身高校名付き)だけでしたが、昭和28年からは全合格者名が出身高校名付きで掲載されました。こういうことは合格者名簿が東北大学から新聞各社に配布されなければできません。そのほかの合格者数は『仙台一中、一高百年史』『仙台二高百年のあゆみ』に出ています。

「県の施策」もありません。公教育において合格者数に差をつけるような施策を行えるわけがありません。当時の河北新報にそれを報じた記事はありません。仙台二高の『仙台二高八十年のあゆみ』にも『仙台二中二高百年史』にもそのような記述はありません。社会党、共産党が県議会で取り上げたこともありません。県教委と対立する日教組も何も言っていません。

差がついた理由は受験競争激化による輪切りによるもので、輪切りは昭和30年代初めから始まっていました。 高砂敏夫著『高校教育スクラップ-新制高校四十五年の軌跡-』(平成3年12月発行)31ページ 「宮城県では、昭和三十年初めから高校進学に伴う輪切り現象は始まっていた。」

一高の優位は昭和34年に確立しました。 読売新聞宮城版 昭和49年2月8日 「ところが、三十四年の入試を境にこの均衡関係は破れることになる。この年、一高は大量百七十三人が東北大へ合格、・・・これ以後、世間の目はまず一高に向けられるようになったと言われ、「一高優位」は動かないものになった。」

特定の受験生だけを集めようとすれば新聞で取り上げられます。 『高校教育スクラップ』84ページ 「さて、下って昭和六十二年になっても、この問題はくすぶっていた。同年三月二十日の朝日新聞は次の記事を載せていた。秋田県で屈指の進学校の大舘鳳鳴高校で、大学進学率の向上とスポーツ振興をねらって、地元の各中学校に「できるだけ男子を受験させるよう要請」していることがわかった。秋田県弁護士会では、憲法十四条(法の下の平等)と同二十六条(教育の機会均等)、「教育基本法」に違反するとして、秋田県教育委員会などに男女平等の進路指導を促す勧告書を送付した。」

入学者数を調整しようとすれば新聞で取り上げられます。 『高校教育スクラップ』306~307ページ 「この中教審の報告で、特に目立ったことは「一つの高校から特定の大学への入学者数を制限すべき」という事項であった。・・・この中間報告はさまざまな物議をかもした。朝日新聞は社説で「新しい特権階級の形成につながるから一つの高校から特定の大学への入学者数を制限すべし」と唱えるのは論理がやや粗っぽく説得力に欠くのではないか(平成二年十二月二十日付)と論じていた。有馬朗人・東大学長は「入学者数を制限することが許されるのか」と反発し、西原春夫・早大総長はじめ私立大関係者は激怒していた。(『週刊朝日』GW増大号5-3・10、一九九一)」

このまま反証などがないならば上記の二つの文は事実に反するということで1か月後くらいに削除します。--Ultranium会話2017年4月25日 (火) 13:47 (UTC)[返信]