ノート:タブー

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初期のノート[編集]

「穢れと聖性は表裏一体であり、どちらも通常のレベルの共同体秩序の外側にある。」ってかなり逃げてますね。文章。「根幹」という語が複数の意味合いで使われていたり問題散見。各地における偏差や実例や、血のケガレとかの話とかが不足しているからいきなり結論まで(それも何度も)飛ぼうとしている………ってそれは全部自分です。すみません後日もうすこし丁寧に書けたら書きます。最近は人類学系の方も増えているかと思いますので、どなたか御指南いただけましたら幸いです(差分のページで「どう直すか」を勉強します)。--FeZn 2004年8月31日 (火) 17:54 (UTC)[返信]

正確性[編集]

タブー(禁忌)について、まず宗教学的に綿密に吟味して記述しなければならない。何故なら、何故タブーが存在するのか、タブーが何故「超自然的な力」を持つのか、色々な説があり、どれが正しいと答えが出ているとも思えない(あるいは、現在の宗教学・文化人類学では「答え」が出ているとうのなら、その答えを理路を明らかにして説明すべきである)。私見では、この宗教・呪術に関係するタブーについては、統一した答えはないと思う。宗教学者や人類学者がどういう説を唱えているかを概説して、多様な見方があるとして、しかし、そこでもタブーとはどういう事態か、現象としては共通して確認されている構造を提示すべきである。

「狭義のタブー」「広義のタブー」などと出てくるが、唐突に出て来るというか、何のことかよく分からないのは、宗教学でのタブーについての把握や説明が根拠希薄で、明確でない為だと思える。様々な説があるというのは、だから分からないのではなく、それ故に様々に把握して理拠を提示しなければならないということである。一体、誰の説を元に、どういう「超自然の力」あるいは「共同体の構造維持の力」でタブーが成立しているのか、「様々な意見がある」として、鳥瞰的に概観できる水準まで見渡し提示してこそ、まず、宗教学での「タブーの概念」が明確になると云える。そのような手順もなく、典拠の明示もなく、多元的な把握や鳥瞰もなく、適当な言葉でごまかして、タブーとはこういうものである、となっているので、結局、何のことか曖昧で、意味不明になっている。

従って、基本的な意味、無意識的な、あるいは呪術的な、非合理的要素も備えたタブーの共同体心理的な機構や構造の解析も説明もないままに、「比喩的に使用される、現代におけるタブー」の話に移るので、一体何を述べているのか、エッセイにしかならないのである。近親相姦のタブーに関しても、エジプトの神王がこのタブーを破る、というよりも、近親相姦を犯さねばならない要請があった事実を、「タブーを破ることができるので、特権を持つことができた」という風に解説すると、それは誰の学説なのか、どこまで研究者の研究成果に基づいた話なのか、まったく信憑性がない。参考文献もなく、せめて古典のなかの古典のフレイザーの『金枝篇』ぐらいは書いておく必要があるし、レヴィ・ストロースの研究も、いまでは古典となっているが、自然科学と違って、この種の問題は、明確な答えが出るというものでない以上、それらも参考文献に必要なはずである。そういう参考文献は見ていないというのなら、そういう人は、記事を執筆するのは控えるべきである。個人のエッセイになっている。--Maris stella 2006年8月7日 (月) 13:03 (UTC)[返信]

定義文の試案例[編集]

以下は、こういう視点から定義文を記すのはどうかという意味での草稿というか、一つの切り口です。この後、「起源」「概説」などで、クックの報告したタブーの例と、言葉の由来を書き、以下で色々示唆した、聖と俗、日常と非日常の対立構造や、世界観、世界の因果論理の把握のありようなどから、タブーとは何かを、まず宗教学的な概念で、解析記述するのが妥当なように思えます。この記述だと、未開人の社会の制度の説明をしていると、同じことが、現代の社会でも成立することが自然に出てきます。最後に、本当に「比喩的な用法」を紹介するのがよいでしょう。

「報道のタブー」とかは、超自然でも非合理でもなく、多くは、意識的な計算の上から出てきていることが分かります。しかし、この場合も、「現代の宗教的タブー」であることに、更に比喩的な把握が重なっているということがあり、これは「意識的な計算」と思っている他方、実際には「非合理的な力の規範」が存在しているという例です。行動の結果の利害が、予めに明確に計算できる場合の「回避」は、意識的な計算で、「比喩的なタブー」または「自主規制」でしょうが、天皇家の問題などになると、利害計算できる部分と、他方、なお合理的に説明の付かない「禁忌」が存在するということがあるでしょう。--Maris stella 2006年8月7日 (月) 14:11 (UTC)[返信]

サンプル定義文[編集]

以下は、もっと整理して、具体的な内容にしないとならないが、とりあえず、こういう記述が必要ではないかということです。具体的な例に触れると一杯出てくるので、簡単にうまく触れて、「具体性」を加えるのがよいかも知れないです。とりあえず、どう考えるか、どう記述するかの出発点の見本としてです。--Maris stella 2006年8月7日 (月) 14:11 (UTC)[返信]

タブーTaboo)とは、未開社会や古代の社会で観察された、何をしてはならない、何をすべきであるという形で、個人や共同体における行動のありようを規制する広義の文化的規範である。その社会における聖なるものや俗なるもの、日常と非日常、清浄と穢れなどの対立構造と密接に関連していることが多い。

すべきである、という形の場合も、忌避行動をすべきであるという形であることが多く、一般的には、禁止の形で現れる。ここから「禁忌」とも呼ばれる。タブーとされる行動のありようには様々なものが知られており、超自然的な力と関係付けられたり、霊との関係が強調されたりもする。タブーのありようを調べると、未開人や古代の人々が、できごとの生起をどのように捉えていたのか、ものごとの因果をどう把握してかが分かることがある。また、世界の存在の原理や、個人や共同体がどのような構造で成立しているのか、文化ごとで独特な世界観の前提が理解できることがある。

タブーとされる行動をなぜ取ってはならないのか、合理的な説明は存在しない場合が多い。しかし、タブーを侵犯すると、どのようなことが起こるとその社会では考えられていたかを調査すると、世界や共同体の存立の根拠とタブーの遵守は密接な関係を持っていることが分かる。

タブーという言葉とその概念は、宗教学的または文化人類学的な研究対象であり、未開人や古代の社会について論じられていた。しかし、タブーは現代社会にも存在していることが認められており、宗教学的なタブーの概念を比喩的に使った表現として「現代のタブー」というものが考えられる一方で、比喩的な意味ではなく、文字通り、現在に生きるタブーの存在も知られている。従って、タブーの現象とは、未開人や古代社会の問題に尽きず、現代の問題でもある。

--Maris stella 2006年8月7日 (月) 14:11 (UTC)[返信]

追加と疑問[編集]

以上を書いたあとで、本文をもう一度というか、正確には、三回、四回、五回と繰り返して読んで見ると、「必要な内容」と思ったことが、現在の記事には、一通り書かれているということが分かりました。以上書いた文書全体を一旦削除しよう……とも考えたのですが、しかし、やはり残しておきます。

現在の記事は、相当理解されている人が、巧妙なレトリックで記事を書いているように見えます。「一通りの内容」を、節に分けて、エッセイ風に書いているのですが、問題は、これで「タブー」の説明の記事になっているのかという疑問です。何を書かねばならないかを整理して考えたあと、読み返してみると、その内容が実は書かれていたということですが、しかし、「何を書くべきか」を把握して読むと、書かれていたというのでは、やはりおかしいと思います。また、「一通り書いている」のは事実ですが、非常に巧妙に「説明を回避」しています。回避しているというか、説明しようとすると、収拾がつかなくなるように思えるし、スマートな記事ではなくなると思います。しかし、例えば、「タブーとは端的に何か」で、冒頭の定義文では、「聖なるものと俗なるものの境界性の侵犯に対する禁止」というように述べて、結局そうなのか、違うのか、曖昧な内容で、しかし読む人を、そこの部分では納得させる形式を整えています。

これに続いて、「穢れたものを避ける」という禁忌を、接触呪術の原理から説明しているのですが、これは最初の定義文とは、違う話になっており、接触呪術がなぜ存在し得るのか、実は、このことが、タブーがあるから成立するとも云えるので(というか、タブーを説明するために、接触呪術と類比呪術が考えられたはずです。逆ではないと思います)、説明すべきものを使って、説明のようなことを書いているスタイルで、やはり何かおかしいです。「聖なるものへのタブー」を節を改めて説明していますが、これも最初の定義文からするとおかしな話とも云えます。現在の記事は非常にスマートで巧妙に出来ていると思いますが、「タブーとは何か、説明していない」と思います。公然と社会の表で流布し、かつ意識的に考えたり判断してもよいことと、公然と社会に流通しては困るもの、意識しない方が望ましいものがあり、この後者の事態が、「タブー」として現象してくるのです。公然性と日常的な意識性と、非公然性・隠蔽と無意識化という緊張があるのであり、ここをどう考えるのかがタブーの問題なのに、非公然であるべきで、隠蔽され、意識化してはならないものがタブーであるという話だと(記事はそういう記述です)、説明になっていないと思います。触れると危険なものがある、あることをすると社会の秩序が崩れるものがある、だからタブーであるというのは説明ではないと思います。そういうものをタブーと呼ぶのであって、なぜタブーの侵犯が、社会秩序の崩壊に通じるのか、その根拠というか、機構をめぐって色々な説があるので、それを回避する記述になっています(大学に落ちるとか、具体的な話があるようで、タブーの具体的な例に切り込んで行っていないです)。ここは、タブーの具体例を挙げて、色々な学説を紹介し、研究者たちはどうタブーを解釈し説明してきたかが、面倒ですが必要なように思います。難しいことですが。--Maris stella 2006年8月7日 (月) 15:36 (UTC)[返信]

イデオロギー性の問題[編集]

前回の指摘からだいぶ間が空いてますが、改めて疑問を提起したいと思います。現在の記述には確かに所々違和感がありますが、おそらくイデオロギーの問題が介在しているかと思われます。以下項目からの引用ですが「イデオロギーは何らかの政治的主張を含み」「イデオロギーは非合理的な信念を含んでいるが、巧妙にそれを隠蔽していることが多い。また事実関係や社会状況の一部を偽り、自己に都合のいいように改変していることがある」といった点が当てはまるかと思います。具体的には共同体という語を頻出してますが「国家や地球といったマキシマムなレベルから、近所や家庭といったミニマムなレベルに至るまで、あらゆる規模の共同体において」という用法からも分かるように歴史的変遷という視点に欠け(前後関係がごっちゃになっています)、民衆と権力・為政者を同一視するというレトリックを冒しています。やはり政治色のないMaris stellaさんのサンプル定義文に差し替えた方がすっきりすると思いますがいかがでしょうか。血の穢れすなわち生と死に関するものにつきましては、フレイザー、ファン・ヘネップ、日本の民俗学者など多数の研究が「再生」信仰の一環という点でほぼ一致しているかと存じます。--廬舎那憂 2008年7月19日 (土) 14:24 (UTC)[返信]