ノート:カトリック山田教会

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一部記述の削除について[編集]

本文の記述の中で、『生月島の中でこの山田地区の人々だけが戻ったと言われている。』 の部分を、事実と異なると判断したので削除しました。

平戸市生月町博物館の公式ホームページの説明(明治の禁教解除とカトリック信仰)[1]によると、明治時代の生月島ではカトリックは山田集落を中心に広まり壱部集落にも若干の信者を獲得し、と書かれています。また、本文の出典としても挙げられている『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』 長崎文献社 ISBN 9784-888510912 でも、生月島の壱部教会の記述では『明治12年(1879年)頃、潜伏キリシタンからカトリックになった人々の子孫が、現在の信徒である。』と書かれています。同様に、1989年(平成元年)発行の『長崎の教会』(発行:カトリック長崎大司教区)の壱部教会のページにも『主任教会(カトリック山田教会)と同じく明治12年(1879年)から13年(1880年)頃、黒島の信徒の手助けによって潜伏キリシタンから復帰した者の子孫によって構成されている。』と書かれています。

これらの資料から、生月島の潜伏キリシタンが(カトリックに)戻ったのは山田地区だけでなく、壱部地区にもカトリックに戻った人がいたと考えられ、これまで本文で出典とされていた井出道雄『西海の天主堂路』新風舎、2006年、151頁。  の記述は間違いであると思われるので、記述を削除しました。--1983Étoile de la mer会話2015年4月19日 (日) 05:33 (UTC)[返信]