チェルケジシヴィリ

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チェルケジシヴィリ
ჩერქეზიშვილი

チェルケジシヴィリグルジア語: ჩერქეზიშვილიグルジア語ラテン翻字: Cherkezishvili)は、ジョージア貴族大カバルダの族長チェルケシアの血筋を引き、文字通り「チェルケシア人の子/子孫」を意味する。彼らは17世紀にカヘティ(ジョージア東部)に定住し、封建領主の上級貴族階級タヴァディ)となった。ロシア統治下の時代では、1829年と1850年にクニャージの「チェルケゾフ」(ロシア語: Черкезовы)として認められた[1][2]

歴史[編集]

イオアネ公といった伝統的な家系図の記述によると、チェルケジシヴィリはタマル女王の治世 (1184–1213) にジョージアへ辿り着いたチェルケシアの族長の血筋を起源とする。事実、この家の祖先であるカバルドの貴族アレジュコは、ジョージアではアラダグとして知られ、17世紀頃にはジョージア東部のカヘティ王国に定住していた。その後アラダグやその後継者たちがキリスト教を採用したことにより、貴族階級であるサタヴァドと、カヘティ王が有するいくつかの村を授与された。与えられた村は、マナヴィトフリアウリカカベティカチレティなどであった。サタヴァドの一族の所有物は、総称してサチェルケゾ (საჩერქეზო) として知られていた[3]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  1. ^ Toumanoff, Cyril (1967). Studies in Christian Caucasian History, p. 271. Georgetown University Press.
  2. ^ この記述には、パブリックドメインの百科事典『ブロックハウス・エフロン百科事典(1906年)』本文を含む。
  3. ^ Javakhishvili, Niko (2005) (Georgian). ნარკვევები ქართველი და ადიღელი ხალხების ურთიერთობის ისტორიიდან [Studies in the history of the relations between the Georgian and Adyghe peoples]. Tbilisi: Center for Research of History of the Georgian-Caucasian Relations. pp. 288–307. ISBN 99940-0-236-8