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矢部暉種(やべあきたね、生没年不詳)は鎌倉時代頃の人物で因幡国八東郡の国人・矢部氏の始祖。通称・十郎、父は平次為定。
経歴
元々は駿河国安倍郡矢部村の地頭一族であったが正治2年(1200年)正月、梶原景時一族が鎌倉を追われた際、幕府の命を受け駿河国清見関にて梶原一族を討ち取った。この時、父・平次為定は播磨国福田庄を、嫡子の暉種は因幡国八東郡山田村外20ヶ村[1]を恩賞として与えられ入部、若桜鬼ヶ城を築城[2]して安土桃山時代まで続く因幡矢部氏の始祖となった。
脚注
- ^ 現在の若桜町一帯を指す。「山田」の地名は早い頃から無くなり、「若桜」と呼ばれるようになった。
- ^ 因幡志などには応安年間の築城とあるが、昭和16年の「矢部氏文書」の発見によって覆された。
参考文献
- 谷本進・角田誠編『因幡若桜鬼ヶ城』城郭談話会、2000年
- 若桜町誌編纂委員会 『若桜町誌』
関連項目