百済王教法

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百済王 教法(くだらのこにきし きょうほう、生年不詳 - 承和7年11月29日840年12月26日))は、平安時代前期の女官。陸奥鎮守将軍百済王俊哲の娘で、桓武天皇女御[1]

百済王氏からは教法のほかに教仁貞香桓武天皇後宮に入ったが、女御になったのは教法だけである。なお、紀乙魚とともに桓武天皇の女御になった教法だが、この任命が女御の始まりとされる。延暦24年(805年)に相模国大住郡の田二町、弘仁2年(811年)に山城国乙訓郡の白田一町を嵯峨天皇から賜っている[2]承和7年(840年)11月29日卒去[1]享年不明。位階従四位下であった。天皇との子については記録はない。

脚注

  1. ^ a b 続日本後紀承和7年11月29日条。
  2. ^ 日本後紀延暦24年11月15日条/弘仁2年正月29日条。