畑中権内

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畑中 権内(はたなか ごんない、宝暦3年(1753年)? - 文化13年(1816年)?)は日本江戸時代寛政期に実在した庄屋である。出身地は摂津国島下郡車作村(現在の大阪府茨木市車作)。

地元・車作のかんがい用水路を完成させ、地域に大きな貢献をした人物として知られる。

生涯[編集]

権内は宝暦3年(1753年)に庄屋の家柄に生まれる。だが、当時の車作の耕作地は安威川下流に向かって棚田になっており、そのため水が行き通らず、水不足のため凶作ばかり続いた。米が作れる土地は安威川付近のわずかな土地だけに限られたのも、村人達が大変苦しんだ原因であった。それを見た権内は自ら救おうと率先して用水路の開削を計画した。

江戸時代中期の宝永年間(1704年 - 1711年)に権内は水路の開削工事を開始した。だが、工事はなかなか進まず、下流の村からの反対などもあり、工事を中止せざるを得なくなった。それでも権内は工事を続けた。

そして工事開始から数十年後、竜王山の麓で下音羽川から分岐し集落内に流れる2kmに及ぶ水路を完成させた。 権内が作った水路は、「深山(みやま)水路」と呼ばれ、「権内水路」とも称する。

権内は文化13年(1816年)に63歳でその生涯を閉じた。車作の人々は権内の功績に感謝し、大正8年(1919年)に法林寺脇の皇大神宮境内に「畑中権内碑」を建て、毎年9月15日には追悼会を行っている。

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